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正義を貫くのも罪を認めるのも恐ろしい。

映画 ブログ

彼がこんな風に演じるのは理由がある。
おそらく自分の行為を後悔してる。
人を殺したことを悔やんでいるんだ。
彼は罪の意識を感じている。
だから、殺しを再現するとき 感情を失ってる。

わたしは、正義感を振りかざす……、というと言いかたがよくないが、要するに素直に正しいことを主張したり実行したりしようとするひとを見ると、攻撃したくなる。

自分には正義を貫く勇気がないと思っている。
四六時中、その主張した正義に恥ずかしくない人間でいられないと思っている。
そういったことを他人にも勝手に当てはめて、
「じゃああんたは、なにがあってもそんな立派な人間でいられるんですかい?」
とついつい攻撃したくなってしまうのだ。
実際にそんな言いかたは滅多にしないが、急にムスッとしたりするときは、そんなことを思っている。すみません。

 

ドキュメンタリー映画ルック・オブ・サイレンス

どこかのおじいさんが、かつてひとを殺したときの様子を再現している。楽しそうに、ものすごく自慢げに。
殺人を自慢するおじいさんと同じ勢力に肉親を殺されたアディさんという男性が、その様子を見て言ったのが、冒頭の言葉だ。

これを聞いたとき、ちょっと違うような気がした。罪の意識がないからこそ、こうして楽しげにかつての殺人を再現できるのではないかと。
「知らない」とか「忘れた」とか「そんなことはなかった」などと言い張るひとたちのほうが、罪の意識を感じているのではないか。だから、隠そうとするのではないか。
もし、アディさんの言葉に嘘がないのなら、彼はものすごく慈悲深いか、悟りをひらいたか、あるいは人生を諦めているのか、そんなたぐいのひとだろうと思った。切なすぎて、すこし泣きそうになった。
でも、そんな「切なくて……」なんてアホなことではなかった。

 

1965年のインドネシアで、ある大義名分のもとに大虐殺が行われた。アディさんの兄も殺された。
虐殺を指揮した者、実行した者、加担した者たちは裁きを受けることなく、今も生きている。結構いばって生きている。偉くなって政治家になっているひともいる。

「許せん!」と怒りを覚えるかもしれない。確かに、現代の、わたしたち日本人がもつ一般的な倫理観に基づけば、許されることとは到底思えない。
でも、もしも自分が50年前のインドネシア人だったら、虐殺を止められただろうか。止めるところまでいかなくても、なにかが「おかしい」と感じられただろうか。
わたしには自信がない。寄らば大樹になる可能性のほうがあきらかに高い。

今の日本を生きていても、日々おかしなことはたくさんしている。
会社員だったころ、いじめているつもりはなかったが、必要な値引き交渉だとかコストダウンだとかいう大義名分のもとに下請けいじめをしていた。
当時のわたしは、その先のことを想像しただろうか。部品のコストが下がるということは、どこかで低賃金で働かされるひとたちがいる可能性があるということだ(他の要因で下がることも当然あるだろうが)。
安い賃金で働いてくれるひとを求めて、企業は海外に飛び出していく。インドネシア一つとっても、先進国の企業に不当に低い賃金で働かされているひとたちがいるということへの知識がまったくなかった。いや、知ろうとしなかった。
そして、わたしは自分のしたことを自慢したのだ。人殺しのおじいさんのように、笑みを浮かべながら。
わたし頑張りました! 全体で××パーセントのコストダウンを達成しました! 
おめでとうございます! 今期の事業部長賞です! 
わーい、賞金でみんなで飲みに行こう!

思い出した。このとき、わたしはかすかに違和感を抱いていた。自分がしたことによって、どこかでだれかが大なり小なり苦しい思いをしているんじゃないか。
取引先のひとは上司に怒られているかもしれない。この下がった分のお金は、どこで辻褄を合わせるんだろうか。同じような負の連鎖が、下請け、孫請け…、どこまで続いていくのだろうか。
そういったことを見ようとしなかった。どこか奥の奥の方に押し込めた。殺人自慢をする「感情を失ってる」おじいさんと一緒だ。
インドネシアのおじいさんたちは、自分のしたことを後悔しているかもしれない。感情を失うことによって、それと直視することを避けている。だから、喜々としてかつての殺人を再現する。


今の日本で生きている限り、だれか/なにかの犠牲なしに生きていくことはかなり難しいのかもしれない。
競争と倫理のどちらをとるのか。
同じ日本の中にすら、犠牲はたくさんある。フクシマ、オキナワ……。わたしは知ろうとしない。だってわたしの責任じゃない。
インドネシアのおじいさんたちは揃って、「虐殺は自分の責任じゃない」と思っている。
スクリーンに映った彼らを客観的に眺めれば、「おやおや」と思う。けれど、わたしは、あのおじいさんたちと同じ人間になる危険性と薄皮一枚で隔てられているだけだった。

日本では、満員電車で足を踏んでもとっさに「ごめんなさい」と言うひとが少ない。
相手が「大丈夫ですよ」と言って罪がなかったことにしてくれればいいが、舌打ちでもされたらいたたまれない。罪を認めるしかない。
それを恐れて、電車が急に揺れたことのせいにして、「自分の責任じゃない」ことにしたくなるのではないだろうか。

足を踏むよりもはるかに重い罪を認めるのは、相当な勇気が必要なのかもしれない。