開き直るわけじゃないけど、わたしは利己的である。

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「これから何する?」と題したマインドマップが出てきた。
これを書いたのはたぶん半年以上前だ。去年の6月くらいだと思う。会社を辞めて3ヶ月ほどたったときだ。「自由、自由〜♪」と浮かれた気持ちも薄れてきて、そろそろ今後のことが不安になり始めてきたころだ。

このまま定職が見つからなかったらどうしようという不安が、頭のなかにどよーんと漂っていた。
急に経済的なことを考えて、「孤独死」とか「餓死」「生活保護」というキーワードが吹き出しのようにぽわぽわと浮かんできては、不安になった。
仕事に面白みを見いだせなくなって会社を辞めたのに、じゃあ面白みのある仕事なんて見つかってないじゃないかということに気づいて、うわわわ! と焦った。

で、うわわわ! となって慌ててマインドマップを書いてみた、という経緯だったと思う。
このマインドマップを見て、ほんの半年前のことなのに、ずいぶんと今の自分とはギャップがあるなあと思う。まるで自分じゃないみたいだ。

たとえば、「頑張るひとを応援する」などと6月の自分は書いた。たしかにそう思った記憶はある。が、気づけば今はそんなことぜんぜん思っていない。
本気で頑張るひとはわたしなんかが応援しなくたって、勝手に頑張るのだ。応援が必要なひとは、頑張っていないひとなのだ。
いや、頑張っていないというのは言い過ぎで、そんなひとも頑張っているのは確かなのだけど、結果が出なくてもそれほどダメージを受けないという感じなのだ。温度だけが無駄に高い。そういうひとたちにとっては「やりきった」という過程が存在することが重要なのだ。なにを生み出し、なにを得たかという結果は重要ではないのだ。
あることを通して、そんな現実を目の当たりにして、頭のなかから「頑張るひとを応援する」という文言はすっかり消えた。

当時のわたしは、どう働きたいかということを考えた場合、とにかく「サポート」という切り口で考えていたみたいだ。
現実的には、ガシガシと自分が前に出るより、裏方的な役割のほうが実務的に回しやすいし、得意だし適性もあると思う。自分ができることや得意なことという視点から出てきたのだと思う。

 

このマインドマップにはもう一つ「自分で考える」ということが主要な位置づけとして書かれていた。
なんだか支離滅裂である。いったいなにを書いているのだ。あんたはいったい何をしたいのだ? と思う。
「ひとを応援したいの〜」とか言いつつ「自分で考える」なんていうのは、せいぜいやりかた(方法)を自分で考えるというレベルのものにすぎない。ひとを応援するということは、そのひとの考え方を尊重するということなのだから。

「自分で考える」ということの一つに、自分で責任を取るということがあると思う。
自分という人間をまるっと差し出して勝負しないまま、「わたしは自分のあたまで考えている」などと言うのは変だ。
自らなにかを起こそうともしないくせに、自分の思うとおりにしたいという単なるわがままを言っているにすぎないということに気づかないまま、ひとのサポートなどという大義名分に逃げ込んでいた。
ほんとうは、ひとの指図を受けたくないだけなのだ。わたしは納得しないとなかなか動けない。でも、どんな職業でも、現実的にはそんなの無理だと思う。
ものすごい著名な小説家ですら、完璧に自分の思うとおりにはできていないだろう。好きな内容で、自分の都合による締め切りで書けるような大先生だったとしても、必ずどこかで出版元の指図に従わざるをえないところがあるはずだ。
ほんとうは1月1日に新作を発売したいのに、敏腕編集者に「先生、1月28日にしましょう」とか言われたら、「まあ、君がそう言うなら……」としぶしぶながらもそれに従うだろう。

家庭のボスと言われる専業主婦ですら、建売を買うのだって、家具を買うのだって、子供の教育だって、財源元の意見は聞き入れられず、すべてはボスである奥さんの意思決定によってなされる(ことが多いらしい)。でも、子供はグレるし、旦那は鹿児島に飛ばされるし、親は脳梗塞で倒れるし、とすべてが思うとおりにはいかない。

世の中思うとおりにはいかない。当たり前である。
でも、少なくとも自分のなかにあるほんとうに大事な〈なにか〉だけは、思うとおりにしたいと思う。
大事な〈なにか〉をふとした拍子で捨ててしまうから、不正もありな世の中になってしまうような気がする。そう考えると、利他的で協調性のあるひとほど、手が後ろに回る可能性が高くなるのかもしれない。これはただの自説。

利己的であれ。