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感受性と倫理観

ブログ

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引き続き、感受性の話。

感受性が高いからといって、そのひとに倫理観があるとは限らないのだなあと思った。
きれいな夕焼けに涙するひとが、業界のブラックな慣習にビクともしないという姿を目にしたとき、そう思った。

ほとんどのモノやサービスにはいろいろなひとの手によって形になり、わたしの目の前に現れている。
食べ物では、昔からよく言われてきた。「お百姓さんに感謝しなさい」と。今では「お百姓さん」だけではなく、流通、販売にかかわるひとも混じってくるのだけど。

 

倫理観がどうのなどと言うわたしも、前職では値引き交渉なんかをやっていた。人のことはいえない。

それがいいことか悪いことかなんて、当時は考えていなかった。そういう交渉ができて、なおかつ成功させることができれば、仕事のできる人間だと勘違いしていた。
そうやって勘違いしている間は、逆に自分が値引きを要求されても、はねつけることができなかった。ビジネスとはそういうものだと思っていたから。
その要求された価格で、いかに利益を出すかということに頭を使うことが楽しくてしょうがなかった。それは、わたしが別のひと(業者)に値引きを行うこととイコールだった。そうやって値引きの連鎖が続いていったのだ。

 

たまに、信じられない価格を要求してくるひとがいた。この金額でどうやって利益を出して、どうやって社員に給料が出ると思っているんだろうか。そういう想像力がないのが不思議だった。ここは日本で、日本なりの貨幣価値で考えてもらうことはできないのだろうか。

その無頓着ぶりに腹が立ったが、わたしも同じだとあとで気づいた。間違ったことをしてきたと反省した。
日本の大企業のほとんどは、そんな無頓着なひとたちによって構成されていると思ったらバカバカしくなったと同時に、そら恐ろしくなった。
それでも、彼らの給料が比較的高い水準で支払われていることが可能なのは、「取れるところから取る」からなんだろう。

最近では、安いばかりがいいとは思わなくなってきた。
いや、いち消費者の私だって、同じものであれば1円でも安いものを買いたいと思う。スーパーで、半額シールを貼っているお兄さんの後ろをついて歩くぐらいだから。
でも、たとえば、国産の小麦粉でさらに無農薬のものを使っているお菓子であれば、高くなるのは当たり前だ。今の日本では、そういったものは高いのだから。

そこに納得してお金を出すか出さないか、ということは、自分はなにを大事にしているのだろう、ということにつながる。

高いものには高いなりの理由があるものと、そんな理由なんてないものとがある。暴利を貪ろうとしているのか否か。そんな判断力をつけてお金を使いたいと思う。

が、その判断力がないから、わたしは今でもアホのように高い携帯電話料金を払っているんだろうな。