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ここで待ってても東京駅には行きません。

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「ちょっと、そこのおねえちゃん。新宿まで行きたいんだけど、どっち行けばいいんかな」
エスカレーターを降りたとき、こんな女性の声が聞こえた。
目の端でとらえた限り、声の主と思われるひとの近くにはほかのひとがいたから、わたしに話しかけられているとは思わなかった。それに、昭和生まれのわたしは、とうの昔に「おねえちゃん」ではなくなっている。
「わたしに話しかけられているのではない」と確信したわたしは、すたすたと目指す方向に歩き始めた。ところが、「おねえちゃん、おねえちゃん、ちょっとちょっと」と声が追いかけてくる。
もしかして、わたしに話しかけてます? 面倒くさいという黒い気持ちが胸いっぱいに広がりつつ、キッと振り返った。
そこには、やや個性的なファッションだけど、顔を見る限りは至極まっとうそうな50〜60代と思われる女性がいた。

新宿って言われても、ここは六本木ヒルズだ。まさか新宿まで歩いて行くわけじゃなかろう。「新宿に行くには、どの駅から電車に乗ればいいか教えてくれ」が正しい質問のしかたなんじゃないの? と思った。
なんで近くにいたひとじゃなくてわたしに訊くのかという疑問や、このフランクすぎる口のききかたや、あまりにも手抜きな質問におののきながらも、わたしは 「とりあえず六本木の駅に行きたいということでいいですか?」 と返した。すると彼女は 「うーん、たぶんそう、……かな」 と歯切れが悪い。
来るときはどこから来たんだよ。駅っつったって、六本木以外にもいっぱいあるんだよ、とイラッとしながらも、
「ここをまっすぐ行けば、地下鉄の駅に降りる階段がありますよ」
とわざと無表情で教えた。
「ありがと、ありがと」と言いながらせっかちに去っていく彼女の後ろ姿を見ながら、ほんとうは、新宿までの行き方がわかるかどうかを訊いてあげるべきだっただろうなと思った。
でも、その話をするとややこしくなりそうで、訊かれたことだけ答えるにとどめてしまった。ごめんね、おばさん。

 

「ここで待ってれば東京駅に行ける?」
「◯◯町5丁目21はこのあたりかしら?」
「スミーマセン、ワタシワァ、イケブクロゥニィ、イキターイデス」
「いま、何時ですか?」

ここのところ、毎日のように赤の他人にいろいろな質問をされる。いつも仏頂面しているわたしに、親切にさせようとする理由がよくわからない。
若い頃からなぜか外国人に道を訊かれることは多かったが、最近は外国人1割、日本人9割と日本人率が高まっている。外国人に優しい観光立国ニッポンになったから外国人に話しかけられることが減ったのか、日本の高齢化が進んで迷える高齢者に話しかけられることが多くなったのかはよくわからない。

サービス精神のほとんどないわたしに道やら電車やら時刻やらを訊いて、後悔するひとは多いだろう。 わたしの虫の居所次第で、彼らの行く末は決まる。そして、残念ながら、虫の居所は悪いときのほうが圧倒的に多い。
訊かれたことにしか答えないし、クローズド・クエスチョン(YesかNoで答えられる質問)に対しては、YesかNoかでしか答えない。知らないことは知らないとしか答えず、一緒になって調べてあげることもほぼしない。おまけはいっさい無し。駅員さんとかおまわりさんとか、駅探とかグーグルマップ様に訊けよ的な雰囲気まで匂わせてしまう。

丸ノ内線新宿三丁目駅で「この電車は池袋まで行きますか」と問われて、「行きますよ」と答える。嘘じゃない。本当に行く。でも、違うルートのほうがはるかに早い。
新宿三丁目から池袋に行くには、副都心線を使えば10分もかからないが、丸ノ内線に乗って行くと40分近くかかる。近いはずの池袋にはなかなか着かない。
いつかこんな意地悪をしてみたい。

こんな不親切で性格の悪いわたしだけど、虫の居所に関係なく、自らひとに親切にしようとすることがある。
それは2つの場合に決まっていて、誰かが持ち物を落とすのを目撃したときと、重い荷物を持って駅の階段を上がろう(または降りよう)としているひとがいたときだ。
落とした物を拾ってそのひとのところに持っていくとか、「荷物をお持ちしましょうか」と申し出ることを、考えるより先にやっている。 
なぜこの2つなのかは、たぶんそのひとが困っていることが明らかだからだと思う。
この親切は単なる気まぐれなので、お礼を言われまいが、申し出を断られようが、一向にかまわない。寅さんのようにかっこよく立ち去るのだ。

正しいことかどうかはわからないけれど、親切って気まぐれでもいいんじゃないかと思う。気まぐれには下心がないから。
義務感からの親切心では、その行動を認めてほしいという期待を持ってしまいそうだ。
お礼を言われなかったりすると、「なによ、せっかくやってあげたのに!」と相手を悪く思ってしまうかもしれない。「ありがとう」という言葉を強要することになる。これでは他人にも自分にもいいことはない。

いつもいつも親切なひとでいようとすることは、少なくともわたしには無理だ。
親切であろうとすることを自分に課してしまうと、それができない自分をダメな人間だと思い、そこに無駄なエネルギーを使ってしまいそうだ。

だから、下り方面のホームで「東京駅に行きますか」というクローズド・クエスチョンはしないでください。仏頂面の「行きませんけど」という答えが返ってくるだけだから。

でも、みんながこのブログに「いいね!」してくれたら、気を利かして上りホームまでご案内しますけど!

ちゃんと見(観)よう。

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なぜ、あることをやるためには何かを犠牲にしなければならないと、人は思うのでしょう。

仕事をとるか、家庭をとるか。
言いたいことを言わないでいい人でいようとするか、言いたいことを言う代わりに嫌われるか。
我慢して就職するか、好きなことのためにフリーターになるか。
トレードオフっていうんでしょうか、こういうの。 なぜ、どちらも可能だと思えないのでしょうか。
実際に行動に起こす前から、こっちを選んだらこうなる! と決めつけて、人はうだうだと悩んでしまいます。もちろんそうじゃない人もたくさんいるとは思いますが。

かつての職場に、「有休をとりたいけど、なかなか休めない」といつも言っている人がいました。べつに休めばいいんじゃないかと思うんですが、「休んだら迷惑がかかる。だから休めません!」となかなかに頑固でした。
迷惑がかかるかどうか、そんな未来のことなんてタイムマシーンに乗らない限り、わたしたちにはわかりません。
もし迷惑がかかると思っているのなら、迷惑がかからないように段取りしとけばいいじゃないかと、無責任なわたしはそう言ったのです。そうしたら、「この仕事はわたしにしかわからないから無理!」と言われました。もう知らん、と思いましたわ。
迷惑をかけない、かつ段取りもしないで休める隙きをねらっていたら、死ぬまで休めません。彼女は、休む=迷惑がかかる、自分の仕事=自分だけでやるべき、という図式に取りつかれていたのかもしれません。

自分の夢を実現させる=恋愛はあきらめなければならないという図式も、古典的ながら根強いような気がします。ものすごく古いですけど、「木綿のハンカチーフ」的な?
でも、このような展開の物語に感情移入する人が多いのは、皆さんやはり似たような経験をしたことがあるからでしょうか。
残念ながら、わたしはこの手のお話には心が動かされません。夢も恋愛もゲットしたスーパーウーマンだからです。

 

というのはもちろん嘘で、わたしが感動できないのは、ものごとの選択にそこまで葛藤したことがないからです。
べつに決断力があるというわけではありません。夢を本気で追いかけたこともなければ、この人と絶対に離れないわ! と思うほどの情熱的な恋愛もしたことがないだけです。せいぜい、モンブランとアップルパイのどちらにするか、情熱的に迷うくらいです。

少し前までのわたしは、葛藤なんかせずに、一つ一つ潔く選択・決断してきた人間だと思っていました。でも、どうやらそうじゃなかったようなのです。

人生経験というものは、どれだけ感情が動かされたかということに尽きるのかもしれない、と最近思います。
他人からはどんなに波乱万丈な人生に見えても、本人がその波乱万丈な何かをただの経験として経験しているのであれば(ちょっとややこしいですが)、その何かはその人の中をただ通過しただけなんじゃないかと思うのです。右から左に。

特別に劇的な経験がなくても、自分の中に湧き上がった感情を無視しないで生きてきた人は、なにか違うんです。
とくに子供の頃からきちんと自分の感情と向き合ってきた人には、「まいりました」と思います。抱いた感情を表に出す、出さないには関係なく、自分のなかで温めてきただけであってもです。
「違う」とか「まいりました」なんていい加減な言葉ですませないで、もうちょっとちゃんとした言葉で表現できればいいのですが、こういうことが、感情に向き合ってこなかった人の成れの果てなのです。

ちょっとうろ覚えですが、インドでは、恐れに形を与えるということをしてきたらしいのです。だから、神様がたくさんいるというのです。
それに対して、わたしは恐れを形にするどころか、見ないようにしたり、なかったことにしたりしてきたわけです。
その結果、感情というものが退化していきました。使わない筋肉は衰えるように、感情も使わなければ衰えるようです。そこになんらかの心の揺れがあることに気づかなくなり、心が揺れることそのものがなくなっていくのです。
そうして、感動する力も共感する力も失っていったのです。
だから、本を読んでも映画を観ても絵画を眺めても、何もキャッチできない。せいぜい落語で笑うくらいです。

 

これを観て、「号泣した」という声をけっこう聞きました。
わたしはもちろん、ひとつぶの涙も出ませんでした。それどころか、観ている間、どうでもいいことばかり考えていました。
この人はアメリカ人なのに、なんでお腹が出ていないんだろうとか、フリーターなのになんでプリウスに乗ってるんだろうとか、そもそもこれは真面目に作られたものなのかそれともギャグなのかとか、寝不足だから眠いなあとか。

あ、一つだけありました。
彼らが「消費者」ではなく「提供者」であろうとしたことは、どうかどうかそのまま頑張って続けてください、と思いました。
「提供者」とは、人によっては「リーダー」とか「クリエーター」という言葉で表せるかもしれません。常に受け手でいるのではなく、自分で選んで、動いて、出していくという人だとわたしはとらえています。
そうあろうとした彼らに、ちょぴっとだけ共感したのです。でも、彼らがセンチメンタルになっちゃうところには、ちょぴっとイラッとしましたが。

 

ということで、もう観た方も多いと思いますが、「ラ・ラ・ランド」。
自分の感情をちゃんと見てきた人は、この映画をどう観たのでしょうか。

gaga.ne.jp

部長、会社やめるってよ

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「きみは口と脳みそと直結してるから、これ以上出世できないよ」

まだ会社で働いていたころ、上司であるサカキ部長にこう言われた。
目標管理の面談だったか、賞与のフィードバックだったか忘れたが、割りと唐突に言われたのを覚えている。今まで話していた文脈とはあまりつながっていなかったからだ。

サカキ部長は、親会社から出向してきた。片道切符であることは、本人も分かっていただろう。2年後には、うちの会社に転籍となった。
親会社には、55歳で役職定年というのがあり、平社員としてそのまま残るか、子会社に役職者として移るかの選択をしなければならない。
だが、彼は55歳にはなっていないのに、出されてしまったようだ。しかも、エリートと言ってもいい経歴なのに。

東大で修士課程を修めた後、入社。研究所に配属され、アメリカで客員研究員も務め、途中で博士を取得し、云々……。都内のある大学院で客員教授もしている。
タイプとしては、天才肌ではなく、どちらかと言うと努力家である。

まだ部長と机を並べていたとき、右側に座るその人についてときどき考えた。
大きなお世話だが、「立派な経歴なのに、なんでこのひと、うちの会社に出されちゃったんだろう」などと考えていた。
東大を出たって、博士になったって、そのひとを活用しない会社ってなんなんだろうと思った。

わたしが言うのも生意気だが、サカキ部長は出向者の中では抜群に仕事ができた。
天下り族の中には、あと5年、平穏に過ごせればいいという気持ちが見え見えのひとも少なからずいる。良くも悪くもしない、現状維持を貫こうとするのだ。
子会社なんだから、あまり儲けを出すべきではないと言うひとたちもいた。
だが、サカキ部長は、そうではなかった。既存の事業は、もっと大きくしようとしたし、積極的に新しいことも始めていた。

いつも忙しそうにしていた。昼食に出たと思ったら、10分足らずで戻ってくるし、夜は最後まで会社にいることが多かった。
会社の仕事と大学教授をかけもちしているのだから、限界を超えてしまったのだろうか。少々メンタルをやられていたと、後日談として本人がカミングアウトした。

 

日本が学歴社会ではないことがわかったのは、社会に出てしばらくしてからだ。
新卒の時点では、学歴を重視される。就活中に「きみの大学からは採用したことがないんだけどねえ」とある企業で言われたことがある。当時はわたしもまだうぶだったので、なにも言い返せなかった。
くやしいというより、そんな露骨なことを言われることにびっくりした。
目の前でバブルがはじけ、ベビーブーム世代でもあることに加え、なんの取り柄もない四流私大の学生にとって、就活は苦行だった。
なのに、いったん会社に入ってしまえば、どこの学校を出たかなんていうのは、一部を除いてあまり関係なくなっていく。それは決して悪いことじゃないとは思う。

「日本って学歴社会じゃないですよね」と飲み会の席で部長に言ったことがある。それに対して部長は激しく賛同し、こう言った。
「俺は言いたいことを言いすぎた」

 

「部長、3月末で会社やめるそうですよ! 波紋を呼んでます!」
前職の後輩からLINEが入った。
ああ、やっぱりやめるんだなと思った。思っていたよりちょっと早かったけど。

去年、わたしが退職の意向を部長に伝えたとき、彼は「俺もやめたい!」と言っていた。
笑いながら冗談のように言っていたが、あながち嘘ではなさそうだと感じた。日ごろから、研究に専念したい、論文書くのが大好きだとも言っていたし。

サカキ部長に、脳みそと口が直結しているから出世できないと言われたとき、なんでこんなこと言われないといけないんだろうと思った。
わたしはちゃんと仕事をしている。査定はこんなによくしてくれている。査定したのは部長でしょ。なんで、そんなこと言うの。

わたしは中途入社者の中では、ある程度のところまで上がるのは早い方だった。だが、その後は、一人二人と気がつけば追い越されていた。
明らかに仕事のできないひとが出世していった。いや、そうじゃない。仕事ができないように、わたしには見えただけだ。それはわたしの尺度でしかない。
わたしは仕事で成果さえ出していればいいと思っていた。上にへつらう必要なんてないと思っていたし、そんなことはごめんだとも思っていた。

きみの尺度はこの会社では間違っている。出世したかったら、脳みそと口を断絶させるんだ。
部長、そういう意味だったのですか。
それともそんなのはただの深読みで、口の悪いわたしに対して、日頃の恨みを晴らしただけですかね。

 

サカキ部長は、4月からうどん県の大学に赴任することになったそうだ。
給料はまだ決まっていないが、うどんで食いつないでいけばなんとかなるだろう、などとうれしそうに話しているらしい。

どうしてだろう。部長の門出が素直にうれしい。
「言いたいことを言いすぎた」結果、彼は会社を追い出されたかもしれないが、そこには後悔や恨みはなく、かといってきれいごともない。
淡々と自分の進みたい道を歩んでいくところに、わたしは共感するのだ。

 

「“おめでとうございます”って伝えといて」と後輩にLINEの返事を出した。
もう一つ言いたいことがあるけど、それはいつか会ったら直接言おう。
脳みそと口を断絶させる気はありません、と。

 

※登場人物の名前は仮名です。

正義を貫くのも罪を認めるのも恐ろしい。

彼がこんな風に演じるのは理由がある。
おそらく自分の行為を後悔してる。
人を殺したことを悔やんでいるんだ。
彼は罪の意識を感じている。
だから、殺しを再現するとき 感情を失ってる。

わたしは、正義感を振りかざす……、というと言いかたがよくないが、要するに素直に正しいことを主張したり実行したりしようとするひとを見ると、攻撃したくなる。

自分には正義を貫く勇気がないと思っている。
四六時中、その主張した正義に恥ずかしくない人間でいられないと思っている。
そういったことを他人にも勝手に当てはめて、
「じゃああんたは、なにがあってもそんな立派な人間でいられるんですかい?」
とついつい攻撃したくなってしまうのだ。
実際にそんな言いかたは滅多にしないが、急にムスッとしたりするときは、そんなことを思っている。すみません。

 

ドキュメンタリー映画ルック・オブ・サイレンス

どこかのおじいさんが、かつてひとを殺したときの様子を再現している。楽しそうに、ものすごく自慢げに。
殺人を自慢するおじいさんと同じ勢力に肉親を殺されたアディさんという男性が、その様子を見て言ったのが、冒頭の言葉だ。

これを聞いたとき、ちょっと違うような気がした。罪の意識がないからこそ、こうして楽しげにかつての殺人を再現できるのではないかと。
「知らない」とか「忘れた」とか「そんなことはなかった」などと言い張るひとたちのほうが、罪の意識を感じているのではないか。だから、隠そうとするのではないか。
もし、アディさんの言葉に嘘がないのなら、彼はものすごく慈悲深いか、悟りをひらいたか、あるいは人生を諦めているのか、そんなたぐいのひとだろうと思った。切なすぎて、すこし泣きそうになった。
でも、そんな「切なくて……」なんてアホなことではなかった。

 

1965年のインドネシアで、ある大義名分のもとに大虐殺が行われた。アディさんの兄も殺された。
虐殺を指揮した者、実行した者、加担した者たちは裁きを受けることなく、今も生きている。結構いばって生きている。偉くなって政治家になっているひともいる。

「許せん!」と怒りを覚えるかもしれない。確かに、現代の、わたしたち日本人がもつ一般的な倫理観に基づけば、許されることとは到底思えない。
でも、もしも自分が50年前のインドネシア人だったら、虐殺を止められただろうか。止めるところまでいかなくても、なにかが「おかしい」と感じられただろうか。
わたしには自信がない。寄らば大樹になる可能性のほうがあきらかに高い。

今の日本を生きていても、日々おかしなことはたくさんしている。
会社員だったころ、いじめているつもりはなかったが、必要な値引き交渉だとかコストダウンだとかいう大義名分のもとに下請けいじめをしていた。
当時のわたしは、その先のことを想像しただろうか。部品のコストが下がるということは、どこかで低賃金で働かされるひとたちがいる可能性があるということだ(他の要因で下がることも当然あるだろうが)。
安い賃金で働いてくれるひとを求めて、企業は海外に飛び出していく。インドネシア一つとっても、先進国の企業に不当に低い賃金で働かされているひとたちがいるということへの知識がまったくなかった。いや、知ろうとしなかった。
そして、わたしは自分のしたことを自慢したのだ。人殺しのおじいさんのように、笑みを浮かべながら。
わたし頑張りました! 全体で××パーセントのコストダウンを達成しました! 
おめでとうございます! 今期の事業部長賞です! 
わーい、賞金でみんなで飲みに行こう!

思い出した。このとき、わたしはかすかに違和感を抱いていた。自分がしたことによって、どこかでだれかが大なり小なり苦しい思いをしているんじゃないか。
取引先のひとは上司に怒られているかもしれない。この下がった分のお金は、どこで辻褄を合わせるんだろうか。同じような負の連鎖が、下請け、孫請け…、どこまで続いていくのだろうか。
そういったことを見ようとしなかった。どこか奥の奥の方に押し込めた。殺人自慢をする「感情を失ってる」おじいさんと一緒だ。
インドネシアのおじいさんたちは、自分のしたことを後悔しているかもしれない。感情を失うことによって、それと直視することを避けている。だから、喜々としてかつての殺人を再現する。


今の日本で生きている限り、だれか/なにかの犠牲なしに生きていくことはかなり難しいのかもしれない。
競争と倫理のどちらをとるのか。
同じ日本の中にすら、犠牲はたくさんある。フクシマ、オキナワ……。わたしは知ろうとしない。だってわたしの責任じゃない。
インドネシアのおじいさんたちは揃って、「虐殺は自分の責任じゃない」と思っている。
スクリーンに映った彼らを客観的に眺めれば、「おやおや」と思う。けれど、わたしは、あのおじいさんたちと同じ人間になる危険性と薄皮一枚で隔てられているだけだった。

日本では、満員電車で足を踏んでもとっさに「ごめんなさい」と言うひとが少ない。
相手が「大丈夫ですよ」と言って罪がなかったことにしてくれればいいが、舌打ちでもされたらいたたまれない。罪を認めるしかない。
それを恐れて、電車が急に揺れたことのせいにして、「自分の責任じゃない」ことにしたくなるのではないだろうか。

足を踏むよりもはるかに重い罪を認めるのは、相当な勇気が必要なのかもしれない。

お寿司は穴子から食べます。

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回るところのものでも回らないところのものでもなく、寿司桶に入ったお寿司だったら、何から食べますか。

好きなものから食べる派と、嫌いなものから食べる派がいるとよくいわれますが、(お寿司についていえば、白身の魚から食べ始めるのがあるべき姿だという説もあるようですが)わたしはまず好きなものから始めて、次に好きでも嫌いでもないものを食べ、最後にまた好きなものを食べるという順番です。

わたしは穴子と青魚が好物で、中トロもまあまあ好きです。
桶に入ったお寿司のようにネタを選べない場合は、穴子から始めて、好きでも嫌いでもないタコ・イカとかエビ・カニ、および貝類を途中で食べ、最後から二番目はイワシなどの青魚、しめは中トロというかんじです。
しめがイワシでもいいんですが、最後はちょっと高級品で終わらせたいのです。なんだか貧乏くさいですが。

お腹が空いているときに好きなものをおいしく食べたい。でも、最後になにも楽しみが残っていないのもちょっとさびしい。
だから、好きなもので始めて、好きなもので終えるということをしています。


今、目の前に、わたしにとっての穴子があります。それは半月ほど前からあるのです。それが世に出るとほぼ同時に、手に入れたのです。

予約してまで買ったのに、ほとんど触っていません。ネットでそれについて書かれた記事を見かけたりもしましたが、絶対にクリックしません。「ネタバレ無し」と書かれていても、絶対にクリックしません。

それとは村上春樹の新作『騎士団長殺し』です。
Amazonで予約して買いました。

自分がハルキストだと、とくに自認しているわけではありませんが、彼の書いたものはほぼすべて読んでいるので、ハルキストと言っても許されるのかもしれません。
昨年、インフルエンザにかかったときは、ひたすら村上春樹の過去の作品を読み漁っていました。
村上春樹の作品は読みやすいから病気のときにはぴったりと言うと、驚かれます。みんな口を揃えて、そんなときに読めるものじゃないと言います。
なるほど。わたしはあんまり内容を理解していないのかもしれません。

騎士団長殺し』は1部と2部の2冊で構成されていますから、今、読み始めては絶対にいけません。
こんな長編を読み始めてしまったら、たいへんなことになります。今月は大学のレポートを2本提出すると決めたのに、文献を理解する速度と書く速度が遅い自分が、こんなのを読み始めた日にはレポートなんか出せません。
ただでさえ、村上作品はいつも一気読みしてしまうのですから。

お寿司を食べるときのように、最初と最後を好きなもにする方法でなにごともできればいいんですが、実生活ではそれができないことが多いです。
今は穴子をすっ飛ばして、まずはタコやイカから食べ始めないといけない時なのです。
なのに、歯の弱いわたしはタコがなかなか噛み切れなくて、口のなかでいつまでもくちゃくちゃと食べています。

空腹のうちに好きなものをおいしく食べるのもいいですが、穴子がよりおいしくなるために、そして心おきなく穴子を堪能するために、まずはイカやタコをきれいに食べてしまいたいときもあるのです。
そんなときに食べる穴子は、本マグロぐらいの価値があるかもしれません。だからこそ、いま、とっととタコを食べてしまいたいのです。

穴子がまずくならないうちに、さっさとタコを噛み切れよ! と自分に叱咤しています。

 

 

持久力より持続力

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運動神経と協調性のないわたしが唯一得意とする運動は、マラソンでした。短距離ではなくて、長距離です。俊敏性はなかったのですが、持久力はあったんです。

ここ数年は、道を歩けばしょっちゅう後ろの方から聞こえてくる「とっとっとっ」という足音に、追い剥ぎではないかどきっとさせられますが、これもマラソンがブームに終わらず、すっかり定着した証だと言えましょう。

マラソンが得意だったとはいえ、アラフィフに突入したわたしに走る気力も体力もありません。もっぱら歩く。ひたすら歩くです。
「ウォーキング」ではありません。わざわざウォーキングの時間を作り出す要領の良さもありませんので、出かけるときはほぼ必ずひと駅やふた駅分歩くようにして、なんとか体力の維持をはかっています。

 

去年の秋から、あるところで文章を書く、ということを学んでいました。その学びが先日終了しました。
学び始めたときは、とにかく書こうと思っていました。週に一度2000字、上のクラスに上がってからは5000字を書く課題が与えられました。
最初のうちは、ちゃんちゃんと書くんです。ですが、だんだんと失速していくわけです。一回サボり、二回サボり……。結局、この日で最後の提出日だよ、というときには何も書けなくなっているのです。

いや、書きたいという気持ちはあったんです。でも、書けませんでした。その原因はなんだろうかと考えてみました。

一つは、なにを書いていいのかわからなくなったことです。「書く目的」を見失ってしまったのです。

もう一つは、手を動かそうとしなかったことです。書くことがなくなってしまっても、とりあえず書こうとすることだってできたはずです。でも、パソコンの前で書けずにかたまってしまう事態に陥ることが怖かったのです。
書く目的なんてなくても、テーマをどこからか引っ張ってきて書こうとすることはできたはずです。このはてなブログだって、「お題スロット」なんてのが用意されていますから。

でも、書けなかった。一歩を踏み出そうとしなかったんですね。
あくまでもわたしの場合ですが、大きな一歩を踏み出すのは意外とたやすいのです。「えいやっ」と飛んでしまえばいいんですから。

でも、日々の小さな一歩を踏み出すのは、意外と難しい。
「明日からダイエット♪」と言いながら、食べ納めとばかりにケーキをもりもり食べるのと似ています。「明日からダイエット♪」が延々と続くように、「明日から書こう♪」を毎日毎日自分に言っているのです。

今回の、この書けなくなったときに必要だったことは、小さな一歩です。行き詰まっていても書こうとする小さな一歩です。とりあえず、お題を見つけて、構想を考えて書き始めてみればよかったんです。それができなかったのは、わたしに持続力がなかったからです。

マラソンが得意だったのは、持久力があるからでしたが、この持久力は、ゴールが見えたからこそ発揮されたのです。
トラックに入るまでゴールは見えませんが、ゴールがあることはわかっている。走りきればゴールだということを知っている。だから走れたのです。

それに対して、ゴールがいつまでたっても見えなくても走り続けられる力というのは、持続力なんじゃないかと思います。ゴールが見えない。トラックすらない。どこまでが走りきったことになるのかわからない。でも、走り続けなければいけない。
こういう類の行動が、わたしはどうやら苦手のようです。結局、目の前のことを追いかけていることしかできなかったのです。
目先のことばかり考えずに、長い目で考えないといけないんじゃないか、てなことを仕事では偉そうに言っていましたが、目先のことだけを考えていたのは、この自分でした。

だから、こんな人間にも走るモチベーションを維持できる目標のたてかたが必要だと思いました。

達成できるわけがないので、お正月に一年の目標をたてることは長年していません。
会社員でいたころは、会社が「目標管理」とかいうことをしてくれるので、その目標が無理やりたてたものであっても、やや不本意なものであっても、なんとなく頑張っているような気になるのです。
でも、会社員でなくなった今は、自分で目標をたてなければいけません。
とはいえ、一年をかけた壮大な目標を立てると苦手な持続力というものが必要になるので、ちょっとずつ達成できるような目標にすればいいんじゃないかと思いました。
なので、1ヶ月ずつ目標をたてることにしました。

2月は、5つの目標のうち、4つ達成しました。残りの1つがけっこう重要なことだったので、情けないといえば情けないのですが、まあいいことにします。翌月に頑張ることにします。過去は振り返りません。

3月も同じようにやってみます。
同じく目標5つです。そのうちの一つは、ブログを月に12回書くというものです。
これを宣言するために、なんとも長々と書きました。

それを達成したところで、その先になにがあるのかさっぱり見えませんが、とりあえずやってみます。がんばります。

職場の人間関係は二世帯住宅に学べ?

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どこで見たのか忘れたが、「転職の理由は人間関係以外にない」と断定して書いている人がいた。だれが書いたのかもさっぱり覚えていないが、請われてコラムを書くぐらいの人ではあった。

これを読んで「えっ?」と思った。そんな言い切っちゃっていいのんかしらん。まあ、もちろんそういう人もいるだろうけど、そうじゃない人もたくさんいるはず。

職場の人間関係に悩むということを、わたしは今ひとつ理解できない。自慢じゃないが、わたしは職場の人間関係で困った経験がない(自慢か……)。
まあ、陰でなにか悪口を言われたりはしていたんだろうけど、人間関係が仕事に影響をおよぼすことはなかった。

でも、職場の人間関係に悩む人は確かにいる。わたしも同僚からそれ関連の話を聞いたことは一度や二度ではない。

当たり前だが、会社は学校ではない。仕事をしに来るところだ。人付き合いよりも仕事をちゃんとすることが優先なんじゃないだろうか。
仕事をする上で必要なチームワークとか協調性と人間関係はごっちゃにしないで、分けて考えないといけないんじゃないのか。
と会社員をしていたころは、そう思っていたし、今でもそう思っている。

 

話は変わるが、二世帯住宅という便利なものが発明されてから、だいぶたつ。
こういうものを考えついた人はすごいなあと思う。それに、二世帯住宅が長い時間をかけずに日本に広まったことも意外だ。

同じ屋根の下に住んでいながら、アパートでもないのに別々の玄関から出入りして、壁一枚だか床一枚だかを隔てて別々の生活をしているということを、日本人がいとも簡単に割り切って考えることができた。良くも悪くも他人に気を使い、同列を良しとする日本人にとって、これはすごいことじゃないだろうか。

転職するのは人間関係によるものしかないと言う人がいまだに存在するのに、二世帯住宅のようなドライな関係が受け入れられたというのは、どういうことなんだろうか。

「あら、同じ敷地に家を建てるのに、息子さん夫婦と別々に暮らすの? お嫁さんとうまくいってないの?」
なんて、隣の奥さんに言われないだろうか。そんなことをよく気にしなかったなと思う。

彼らは、無理して同居してストレスがたまり、いらぬトラブルのせいで親夫婦と子供夫婦の関係がおかしくなるよりも、最初からトラブルが起きないように住居を分けることを選択したのだ。病気を未然に防ぐ予防医療と同じだ。
嫁姑関係(嫁と姑とは限らないだろうが)がこわれてから四苦八苦して関係を修復するよりも、その関係を良好に保ち続けることを重視したのが、二世帯住宅の考え方なんだと思う。
本当の医療の世界では、予防医療というのはいまだに少数派のようだが、家族の関係性においては予防医療的な考え方が受け入れられているのだ。

 

職場の人間関係も予防医療と同じに考えればいいと思う。人間関係でトラブルが起きないように予防すれば、くだらないことで悩むこともなくなるような気がする。

ある団体の代表をしている知り合いは、職員が出張や旅行に行ったときに、職場にお土産を買ってくるのを禁止しているという。
お土産を習慣化すると、みんなが買ってこないといけなくなるし、あまり出かけない人はおみやげをもらってばかりになって、「あの人はなにも買ってこない」みたいな余計なトラブルが起きるのだそうだ。
そういうくだらないことで仕事がおろそかになるのを事前に防ぐというのが趣旨だ。

 

ことさらに一人でいようとして孤立するわけでもなく、公私ともにべったりでもなく、ほどほどの距離を保っていれば、職場の人間関係でトラブルが起こりにくくなる。経験的にそう思う。
わたしは無意識に二世帯住宅方式で仕事をしていたみたいだ。
無視したりいがみ合ったりすることはしなかった。でもお昼は一人で行っていたし、プライベートな話は当たり障りのない範囲でしていた。
傍からは一匹狼のように見えたらしいが、これが功を奏して、いろいろな情報が入ってくる。群れていないから情報が漏れないと思うのか、みんな安心してべらべらと話してくれた。一つのできごとや一人の人について、いろいろな側面からの情報が入ってくる。
おかげで、ものごとにはいろいろな見方があり、人によって感じ方がさまざまにあるということを身をもって知ることができた。

どこの職場でも、いつも一緒に行動する人たちは必ずいた。昼休みも、休憩で給湯室に行くのも、帰るときも。
一緒にいる時間が長ければ、いろんな感情のやり取りがあり、気に入らないこともそりゃあ出てくるだろう。
家族や友達なら、そこを乗り越えてより深い関係になっていくんだろう。でも、一人でいたくないという、ただそれだけの理由だけで群れている場合は、時間の経過とともに破綻しやすくなるような気がする。

だから二世帯住宅方式がお勧め。ばっさり関係を切ってしまうのではなく、お互いに都合のいいときだけ一緒の時をすごす。
すべての人間関係がこんなんかんじだったら、ちょっと寂しいかもしれないけど、人との関係性よりも、ほかに大事にしたいことがあれば、二世帯住宅方式も悪くない、と思うのはわたしだけなんだろうか。