読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

後回し癖と集中力

ただの日記

f:id:utsubo_lab:20170127085017j:plain

やらなきゃいけないことを、つい後回しにしてしまってあとで困るというのは、よく聞く悩みだ。
わたしも後回しにする癖があるが、わたしの場合は、やらなきゃいけないことを先にしてしまって、それが終わるころには、
「はて。自分はなにがしたかったのだろうか」
となにもできないまま終わってしまうというパターンだ。

今、本が読みたい。今、ブログを書きたい。でも、掃除しなきゃ。洗濯もしないと。あっ、トイレ掃除も……。
で、それが終わるころには、読書熱もブログ書きたい熱も冷めているのだ。

読書のような受け身作業は、後でいつでも再開できるから、まあいい。
だが、文章を書くといった能動的、というか発作的なものは、「今」湧き上がってきた思いなり、「今」書きたくなったテーマなりの鮮度が落ちてしまうのだ。
そしてなにも書けないで終わる。残念だ。

 

朝ごはんを食べようと、トーストを作りながらコーヒーを淹れる。
最初にコーヒーを一口飲む。「ああ、おいしいなあ」と思う。
冷めないうちに、おいしいうちに、全部飲んでしまいたい。でも、今ここで全部飲んでしまったら、トーストはコーヒーなしで食べなければいけないし、食べ終わった後にコーヒーがないと、なんだかさびしい。
だから、そこはがまんして、トーストを食べる。コーヒーはトーストを食べ終わった後に残っているように、ちびちび飲む。
結果、トーストを食べ終わった後にカップに半分くらい残ったコーヒーは冷めてしまっている。

やらなきゃいけないことを先にやり、楽しみを後回しにすると、こういう残念なことになる。

 

こういう後回し癖は集中力の足りなさの原因でもある。やらなきゃいけないことが気になって集中できないのだ。だから、勉強したいときや文章を書きたいときは、カフェや図書館に出かける。
そこには少なくとも「わたしがやらなければならないこと」はない。

とはいえ、図書館には個性的なひとが少なからずいらっしゃるし、カフェでは気になる会話をなさるひとも多い。
そちらに釘付けになってはいけないのだけれど、怖いもの見たさ(聞きたさ)で、ついそちらに意識がつつーっと行ってしまうのも、わたしの集中力のなさの原因である。

わたしはまじめなのだ。

感受性と倫理観

ブログ

f:id:utsubo_lab:20170126195704j:plain

引き続き、感受性の話。

感受性が高いからといって、そのひとに倫理観があるとは限らないのだなあと思った。
きれいな夕焼けに涙するひとが、業界のブラックな慣習にビクともしないという姿を目にしたとき、そう思った。

ほとんどのモノやサービスにはいろいろなひとの手によって形になり、わたしの目の前に現れている。
食べ物では、昔からよく言われてきた。「お百姓さんに感謝しなさい」と。今では「お百姓さん」だけではなく、流通、販売にかかわるひとも混じってくるのだけど。

 

倫理観がどうのなどと言うわたしも、前職では値引き交渉なんかをやっていた。人のことはいえない。

それがいいことか悪いことかなんて、当時は考えていなかった。そういう交渉ができて、なおかつ成功させることができれば、仕事のできる人間だと勘違いしていた。
そうやって勘違いしている間は、逆に自分が値引きを要求されても、はねつけることができなかった。ビジネスとはそういうものだと思っていたから。
その要求された価格で、いかに利益を出すかということに頭を使うことが楽しくてしょうがなかった。それは、わたしが別のひと(業者)に値引きを行うこととイコールだった。そうやって値引きの連鎖が続いていったのだ。

 

たまに、信じられない価格を要求してくるひとがいた。この金額でどうやって利益を出して、どうやって社員に給料が出ると思っているんだろうか。そういう想像力がないのが不思議だった。ここは日本で、日本なりの貨幣価値で考えてもらうことはできないのだろうか。

その無頓着ぶりに腹が立ったが、わたしも同じだとあとで気づいた。間違ったことをしてきたと反省した。
日本の大企業のほとんどは、そんな無頓着なひとたちによって構成されていると思ったらバカバカしくなったと同時に、そら恐ろしくなった。
それでも、彼らの給料が比較的高い水準で支払われていることが可能なのは、「取れるところから取る」からなんだろう。

最近では、安いばかりがいいとは思わなくなってきた。
いや、いち消費者の私だって、同じものであれば1円でも安いものを買いたいと思う。スーパーで、半額シールを貼っているお兄さんの後ろをついて歩くぐらいだから。
でも、たとえば、国産の小麦粉でさらに無農薬のものを使っているお菓子であれば、高くなるのは当たり前だ。今の日本では、そういったものは高いのだから。

そこに納得してお金を出すか出さないか、ということは、自分はなにを大事にしているのだろう、ということにつながる。

高いものには高いなりの理由があるものと、そんな理由なんてないものとがある。暴利を貪ろうとしているのか否か。そんな判断力をつけてお金を使いたいと思う。

が、その判断力がないから、わたしは今でもアホのように高い携帯電話料金を払っているんだろうな。

 

きれいな風景に感動することだけが感受性があるということなのだろうか。

ブログ

f:id:utsubo_lab:20170120092443j:plain

せんだって、あるところで感受性の話題になった。

きれいな夕焼けを見て涙するひとは感受性があるが、せっかく感動しているそばで「はやくメシ行こうぜ」などと言ってしまう人は感受性にとぼしいということだった。

私もどちらかというと「はやくメシ行こうぜ」派だ。
いや、「メシ」くらいだったら私も夕焼けを見ているかもしれないけど。
その「メシ」をほかのだれかと約束していて、夕焼けを見ていたらそのひとをひとりで待ちぼうけにさせてしまう場合とか。
夕焼けなんか見ていないで今すぐにここを離れないと飛行機に遅れるとか。
そんなときは、夕焼けなんか見ても感動しないだろう。夕焼け以外のことで頭がいっぱいになってしまう。
私にとっては夕焼けよりも、ひとを待たせないことや飛行機に遅れないことのほうが大事なのだ。

ところで感受性、感受性と気軽に言うけれど、感受性とはどういう意味なんだろう。改めて調べてみると、

外界の刺激や印象を感じ取ることができる働き。

デジタル大辞泉より)

 外界のことを感じ取るということならば、ほかのことが気になってきれいな夕日が楽しめないことも感受性といえないだろうか。

ひょっとしたら「空気を読む」ことも感受性が豊かということになるんじゃないだろうか。
だって、「外界」のことなんだから。

女子会なんかで、話が盛り上がっていつまでもきゃっきゃとおしゃべりしていることがある。
お店はもう閉店しようとしているのに、それにぜんぜん気づかない。そういうとき、わたしは話なんかそっちのけで気が気じゃない。お店のひとだって、できれば「閉店ですから出てってください」といった内容のことを、なるべくなら言いたくないだろう。
閉店時間じゃなかったとしても、平気で4時間も5時間も同じ店にい続ける女子会は珍しくない。いくらなんでも5時間とか店にいすぎじゃないか。それに、もう2時間もなにも注文してないし。ちょっと場所を変えたほうがいいんじゃないかと、わたしは気になってしかたがない。
でも、声と気が小さいわたしは、盛り上がっているなかで「そろそろ場所変えない?」のひとことを言うタイミングがなかなかつかめないのだ。

 

だから、わたしなんぞは、絶対に芸術家になれないタイプだ。
描き上げた絵が気に入らないからと、絵の具で大きなバッテンを書いてしまう画家。
できあがった器が気に入らないからと、その場でぐしゃっとつぶしてしまう陶芸家。
せっかくとった出汁を、こんな味じゃダメだ! とザバーッと流してしまう料理人。

ああ、もったいない。
せっかく描いたのに。せっかくつくったのに。材料費がぁぁ……。

こんなことを思ってしまう貧乏くさい人間は、芸術家には向かない。

感受性は、形は違えどだれにでもあると思っているが、きれいな風景に感動するといったたぐいの感受性があるひとは、集中力がものすごくあるのだと思う。
ほかのことなんか気にせず没頭できるから、熱のこもった、とでも言えばいいのか、狂気に近いものを生み出せるのだと思う。
わたしのように飛行機とか待ち人といった周囲のいろんなことを気にしてそわそわして生きていると、狂気の域には入れない。

「みんなが泣いた」という謳い文句の本を読んでも、「涙せずには見られない」と評判の映画を見ても、わたしがひとつぶの涙もこぼさないのは、集中力がないのと、見るポイントがあきらかにズレているからだ。

作者の描写が稚拙すぎて腹を立て、内容は感動物語でもそこに入り込めない。
数十年ぶりに観たアニメのCG技術の進歩に気を取られて、ストーリーがぜんぜん頭に入ってこない。
あーあ、今日の夜ご飯、なに食べようかな。

で、終わった後には、「読んだ」「観た」という事実と、「泣けなかったわたしはばかなんだろうか」という感想しか残っていない。そんなことばかりだ。

きれいな風景に感動する種類のひとは、感動ポイントがちゃんとわかっているのだと思う。そして、そこのポイントに自分をぐーっと入り込ませていき、疑似体験をする。だから感動してぼろぼろと泣く(泣くばかりが感動じゃないですけど)。

あ、でもわたしにも一つだけ芸術家的要素があった。
文章を書くための場所を厳選すること。家じゃダメ、集中できないところもダメだから、そういう場所を求めてさまよう。ちょっとクリエイティブなひとっぽくてかっこいい。

それに、何時間もかけて書き上げた文章がどうしてもしっくりこなければ、即ゴミ箱に移動させることもできる。いったん書き上げたものをちまちま直すことをしてみるものの、結局つぎはぎだらけのちぐはぐなものになり、全体として勢いのないものになることがわかったからだ。
無駄になるのはわたしの時間とパソコンが使った電力だけだ。たいしたことない。……のかな?

「ごめんなさい」と言ったら負けなのか。

ブログ

f:id:utsubo_lab:20170115152928j:plain

数年住んだシンガポールから帰ってきたとき、公共の場で日本人があまりに「ごめんなさい」と謝らないことにカルチャーショックを受けた。
自分だって日本にいたころは謝らない人間だったのに、そのことはすっかり棚に上げて。
そして今、再び謝らない人間に戻ってしまっている。

シンガポールでは、電車やバスなどでちょっとでも触れると、「失礼」とか「あら、ごめんなさい」などと言ってくれる。
それに対して舌打ちをする人など、少なくともわたしは見たことがない。

へっくしょん!! とくしゃみをした後、「エクスキューズミー」という人もいた。
3連発くしゃみをするときは、1回くしゃみするたびに、鼻をぐずぐずさせながらエクスキュ〜ズミ〜と言うのだから、大変だなと思った。最後の一回でいいのに。
これはすべての人じゃなくて、3人に1人くらいだったと思う。女性に多かった。むしろ、くしゃみ音が大きすぎてビックリさせられる男性にこそ言ってほしい。

こんなふうにシンガポール人は礼儀正しいということを、あちらに住むまで知らなかった。
朱に交わって、おのずと私も、ぶつかったりしたらちゃんと謝るようになった。日本に帰ってくるまでは。

で、日本に帰ってきたら、日本人の謝らなさにビックリしたというわけだ。
ぶつかろうが、電車のなかで足を踏もうがしらんぷり。混雑したコンコースなどでは、わざとじゃないかと思う勢いで正面からぶつかってくる人もいる。
海外では日本人は礼儀正しいことになっているようだが、「外国人の皆さん、だまされちゃいけないよ」と言いたくなった。

そのせいか、日本人は妙に遠慮深いところもあると思う。いや、言葉を発したくないのか。
たとえば、せまい歩道で数人が広がってちんたら歩いているとき。
「すいませーん」とか言ってどいてもらえばいいのに、黙っている人けっこういる。
その広がっている牛歩集団の後ろを、困った顔をしてひたすらくっついて歩いているのだ。がまん強い。
わたしはそういうときたちが悪い。
機嫌がよければ「失礼しまーす」と言って通してもらう。(たいていは気づいていないだけなので、快く通してくれる。いや、むしろ「失礼しました」的な感じだ)
自分の虫の居所が悪いと、「じゃまなんだよ」と言わんばかりにわずかな隙間を見つけて、いやみったらしく追い越していく。

なんでたったひとことが言えないのか。
日本語には「すみません」という便利な言葉があるのに。
わたしが悪いわけじゃない。こいつらが人の迷惑も顧みずに広がってとろとろ歩いているのに、なんで私が言葉を発する必要があるんだ。
てなことを思っているから、言えないのだ。

人とぶつかったときは、明らかに相手が悪いと思ったとき以外は、一応「すみません」口のなかでごみょごみょとつぶやくのだが、相手も同じように謝ってくれないといやなのだ。
なんだか損をしたような気になる。「お互いさまなんだから、あんたも謝んなさいよ」と言いたくなる。

さらにさらに心の狭い自分を自覚するときがある。足を踏んでも謝ってくれる人がほとんどいないなか、たまに「ごめんなさい」と言ってくれる人がいる。
機嫌がよければ「いえ…」などと言えるのだが(本当はもっとはきはきと、相手の目を見て「とんでもない。大丈夫です!」くらい言えるとよりいいのだろうが)、やはりイライラしているときは、チッと舌打ちをしてしまう。
なんてことだ。せっかく謝ってくれているのに。
わたしは体も小さければ人間も小さいのである。

こういうことが積み重なって戦争ってものは起きるんだろうか。
いや、踏まれてもぶつかられても不快な感情が起きないように人間を改造すれば、こんなことで悩まなくてもいいし、争いごとも起きないのだ。
今のテクノロジーをもって、世界中の人に集団催眠でもかければいいんじゃないだろうか。

5千万円の茶碗と「いいから黙ってやる」ことの関係性

ブログ

わたしは昔からいろいろなことに
「なんでかな?」と思うんですね。
たとえば
「これは家元のお茶碗だから5千万円します」
とか言われても、その理由がわからない。
そこをわかりたいと思ったんです。

www.1101.com

ほぼ日の糸井重里さんとの対談で、料理研究家の土井善晴さんがこんなことを言っていた。

私はどちらかというと「なんでかな?」と思わないほうだ。

仕事とか自分のやりたいこととかを考えるときとか、そういうときは考える。
「私はなぜこれをやりたいのだろうか?」てなことを無駄に考えすぎて、何もできなくなるなんてことになるのが関の山だけど。

 

「なんでかな?」と思わないのは、相手がプロだと思ったときだ。

土井さんが言う「家元の茶碗が5千万」の文脈がここではわからないが、世間的に信頼されている鑑定家がそう言ったのなら、私は何の疑問もなく「そうなんだー」と思う。

落書きにしか見えない絵でも、100億円の値がついていると言われれば、なんだかよくわからないけど、私の中で「素晴らしい」ことになる。
「こんなの私でも描けるんじゃね?」なんて一瞬でも思ったことをすっかり忘れ、「ほほー」なんて絵の前で感動(エセ)したりする。

 

とはいえ、プロなんだからお任せしますということを貫いていると、とんでもないことが起きることもある。

「あれっ?」と思うようなことがあっても、
「この人はプロなんだから、この行動には何か理由があるに違いない」と思って、私はひたすら黙っている。

そうして、釣り銭を間違えられたり、頼んだカレーライスがいつまでたっても来なかったりするという目にあうことになる。

 

ところで、土井さんの言う「なんでかな?」と思うことと、素直であることって相反することなのだろうかということがすごく気になる。

探究心は大切だということ、素直が大事ということ。どちらも耳にする。

事だったら、何の疑問も持たずに、言われたことだけをやるのがいいのか、何のためにするのかを気にしながらやったほうがいいのか。

「いいから黙ってやれよ、だからゆとりは……」などと昭和的なことを言う人がいる。 
「なぜ、それをするのか」という疑問をいつも持っているべきだという人もいる。

みんな好き勝手なことを言わないでほしい。どっちが正しいのか、アホにもわかるように説明してほしい。

 

仕事のやり方を教わるときとか、学校の勉強や習いごとなんかで人に教えを請うようなときに、「なんでかな?」と思うことはいいのか悪いのか。
こんなことが、なんだかずっと気になってしょうがない。

教えてくれる人が、「Aという理由からBをする必要がある」という関係性を示してくれて、それに自分が納得すれば、問題ない。

ところが、その「A」が納得できないとか理解できない場合が悩ましいのだ。

その場合、

(1)     とりあえず「B」をある程度し続けてから考える
(2)     自分が「A」をガッテンするまで突き詰める
(3)     「B」を放棄して自己流でやっちゃう

というパターンがあると仮定する。

 

一般的に受け入れやすいのは、(1) なような気がする。
「まずがやってみる!」ということ。なんだか優等生的だけど。

(2) は教えてくれる人が、「ほほー、面白い視点だね」とか言えるオトナな人間なら、その人と切磋琢磨することができるかもしれない。
仕事だったら、意味のないルーチンをしなくてもよくなるかもしれない。

だけど、相手はすでに持論を持っているから、「生意気だ」とか思われるかもしれない。
正直言って、私も自分が教える立場だったとき、こういう人にイラッとしたことがある。
正しいだけに、よけいイラッとして相手の正しさを認められなくなってしまうのだ。

こういう状態になると、どちらもムキになって、だんだん相手を論破することが目的になってしまう。

(3) は、頭がいい人だったり、能力のある人だったりすれば、うまくいくかもしれない。
「大学の授業なんか意味がない!」とか言って学校やめちゃっても、何かしらで成功している人とかいるもんね。
私みたいな凡人は玉砕するのがオチなので、やめたほうがいい。

 

でも、言われたとおりのことをやっているのに、うまく習得できないこともある。
私の場合、そんなときになぜか (3) に行ってしまうことがある。 

自分の踏ん張りどころが見極められずに、客観的に見てもまだ早い段階で、
「このやり方ではダメだ」と勝手に結論づけてしまう。
そして、自分のなすべきことが足りていないという事実を棚に上げて、安易な方向にぴゅーっと流れていってしまうのだ。 

できないことを、自分じゃないもののせいにしているから、こういうことになるパターンが多いような気がする。 

イカンイカンとは思うのだが、そういうときに限って、(3) に近い情報ばかりを目にする。こういうのを「引き寄せ」っていうんだろうか。

 

時間がなくなってきたので、ここで勝手な結論。

やってみたほうがいいと感じることとか、やってみなければわからないことは、命にかかわらないことならやってみる。

とはいえ、納得した上でするほうがいいんだろうから、納得したければ、そのあたりを明確にしてみてからなのはいいんじゃないかと。

 

5千万円の茶碗を、納得できるまで触ったりするのは怖いのでやめたほうがいいんだろうな。

ファミレスと罪悪感

ただの日記

f:id:utsubo_lab:20170120092444j:plain

ものすごく久しぶりにファミレスに行った。

ファミレス界にドリンクバーなんてものが導入されてから、たぶん2、3回しかファミレスには足を踏み入れていなかったと思う。
昔と違って今はスタバとかタリーズとかいう長居できるところがいっぱいあるし。

 

そんなスタバもタリーズドトールもないところに来てしまった私は、パソコンで作業をしたくて、あるファミレスに入った。
お腹も空いていたし、ちょうどいいかなと思った。

人数を訊かれて、座席に案内してくれるのは昔と変わらない。
でも、昔に比べて、席と席の間隔が狭くなったような気がする。
ボックス席みたいなのはもうないのだろうか。昔は、一人でも混雑してなければ4人がけのボックス席に案内してくれた。
いや、「昔はよかった」なんてことを言ってはいけない。しがみついちゃいけない。時代は変わったのだ。

 

そして、頃合いを見てオーダーを取りに来てくれるのではなく、
お客が自分でテーブルの上のボタンを押して、店員さんに来てもらう。
居酒屋みたいだ。

なので、ボタンを押す。

 

来ない。

がつがつしていると思われたくないので、もう一回押したくなる気持ちをしばし抑える。

でも来ない。

しょうがないから、もう一回押す。

やっぱり来ない。

イライラする。
いや、待て、自分。
イライラするのはやめるようって新年に誓ったはず。

気を取り直して、もう一回押す。

本当はぴんぽんぴんぽんぴんぽんと、続けて押したい気分なのだが、
がつがつしていると思われたくないので、がまんする。

 

「はい、おうかがいしまーす」
よかった。
3回めにして気づいてくれた。
女の子がオーダーを取りに、こちらに向かってくる。

と、がらがらがっしゃーんというけたたましい音がした。
私のオーダーを取りに来こうとした女の子が、もっていたお盆をひっくり返してしまったのだ。

お盆の上には、たんまりと食器が載っていたらしい。
何枚かの皿は割れ、いくつかのコップは砕け散り、飲み残しとおぼしきコーヒーが黒い水たまりをつくっていた。

 

えーと、私のせいじゃないよね。
私がテーブルの上のボタンを押さなかったら、こんなことにはならなかった?
いえいえ、こうなることは運命だったのですよ。必然だったのですよ。
と、申し訳ないと思いそうになる気持ちを必死におさえつける。

彼女が店長さんらしき人と一緒に、ぶちまけた残骸を片付けるのを
私は無表情で眺めているしかなかった。

ごめんねぇ、なんもできなくて。
あ、謝っちゃった(心のなかで)。

 

久しぶりのファミレスでは、まったくくつろげなかったというだけの話。

長時間労働したっていいじゃない。

ブログ

f:id:utsubo_lab:20170101173141j:plain

去年の冬の数ヶ月間、私の唯一の楽しみは会社の帰りに肉まんを買い食いすることでした。仕事が忙しくて食べ物が入っていない空っぽのお腹を、ほかほかの肉まんはカイロのようにあたためてくれました。
毎晩肉まんを1個だけ買う変なオバサンだと思われたくなかったので、駅前にある3件のコンビニをローテーションで使わせてもらいました。その結果、緑の看板のコンビニの肉まんが、私にとっては一番おいしいということがわかりました。どうでもいいことですけど。

 

あの過酷なプロジェクトへの参加に自ら手を挙げたことが、こんな生活の始まりでした。まあいい。冬が終われば、私はこの会社を去ることになっていたから、最後のご奉仕です。いつまで続くのかという絶望感にさいなまれることなく、私は淡々と仕事をしていました。

 

私はある時から残業が劇的に減りました。現場で実務をすることが少なくなったからです。
同僚が「毎日残業でやんなっちゃうよ」と言っているのを聞いて、「じゃあ、はやく帰れよ」と内心思っていましたが、ねぎらってほしいのが見え見えなので、「忙しくて大変ですね」と言うことにしていました。こいつは文句を言いながらも、本当は残業が好きなんだと思って、冷めた目で彼を見ていました。
でも、本当は私ももっとばりばり働きたかったんでしょうね。ひがみ根性というものは、悪い性格をさらに悪くさせるようです。

ワークライフバランス」だとか、「頑張りすぎない」「人に頼る」といった風潮も最近よく聞くようになりました。
ワークとライフの定義があいまいなワークライフバランスは受け入れがたかったのですが、頑張らない、人に頼るといったことには、私もいっとき影響を受けていました。 みんな自分が必要とされる人物でありたいからたくさん働いているんだ、そんなに頑張らなくたって代わりはたくさんいるし、会社は困らないよ、と思っていました。

ところが、世の中には働き者の人は依然としてたくさんいるのです。
たとえば私が手伝っているカフェのオーナー。オーナーがカフェ以外の仕事も抱えており、始終あちこち走り回っています。
たとえば去年から通っているライティング講座の先生。いろいろなプロジェクトを発動させつつ、ご自分の仕事もあり、ときどき職場で寝落ちしているようです。
でも、彼らに対して「そんなに頑張らなくてもいいのに」という気持ちは出てきません。「体が大丈夫だろうか」と心配することもありません(きっと大丈夫でしょう、たぶん)。

「疲れたな―」と思いながら、夜道で肉まんをパクつく私と彼らとの違いは、自分で選択して仕事をしているかどうかの差なのだと思います。自分の意志ともいえるでしょうか。

去年、広告代理店の女性新入社員が長時間労働でうつになり自殺したというニュースが話題になりました。もしも彼女が自分の選択で仕事をしていたなら、肉体的に疲労することはあったにしても、うつになることはなかったんじゃないかと思います。

 

先日、ある僧侶の話をちょっとだけ聞く機会がありました。
歩くときに、ただ漫然と歩くのではなく、一歩一歩を意識してみる。そうすると、今の自分を自分で認識できるようになり、次の一歩をどう踏み出すのかを自分で選べるようになるという話がありました。
自分が緊張して歩いていることがわかれば、もっとリラックスして歩きたいと思うかもしれません。そうしたら、力を抜いて次の一歩を踏み出してみる。優雅に歩きたければ、次の一歩を女優のように踏み出すというように、次の一歩を自分の意志によって決められるのだそうです。
生きかたもそれと同じことで、その時その時で、今いるところから次の行動を選べるようになることで、自分が納得できる生き方ができるようになるのだそうです。

 

今の自分を意識するだけだと意欲がなくなってしまったり、思考力が落ちてしまったりすることもあるかもしれません。でも、今の自分を意識して、その次にどうありたいかを選択すれば、意欲がなくなるどころか、次の一歩を自分の好きなように踏み出せるんじゃないでしょうか。
自分で選んだことは、自分で納得できる。そうすれば、精神的な病になることはないような気がします。ただ、自分で選んだのだから、正しくてもまちがっていても誰のせいにもできなんですよね。これについては、私なんかは気をつけないといけないんですけどね。

 

頑張っている人を見て、力をもらえることもあれば、自分がダメな人間のような気がするときもあります。
力をもらえるときは、相手のストーリーが見えて、自分にも可能性があるかもしれないと思えるとき。やってみようかという気になります。
ダメ人間と思ってしまうときは、根性論に振り回されるとき。根性論大嫌いなんですが、昭和の人間なので、やっぱり根性論には依然として弱いんです。「できない」と言ってはいけない、やらなければいけないことはサボってはいけない……。罪悪感がひしひしと襲ってくるかんじです。
ここでサボった人間は負けだ! とか、やり遂げられない自分はなにをやってもダメだ! などという妄想がほわんほわんと浮かび上がってくるのです。
もっとファンタジーな妄想ができるといいのだけど……。

で、妄想にとらわれているときに何かをやると、だいたいうまくいかない。自分の選択で動いているからではないからかもしれません。外側のなにかに振り回されているんでしょうかねえ。

 

本当に自分が限界まで働きたければ働けばいい、ほどほどにしたければそれでもいい。どちらの行動をとっても、出た結果に対しては自分が責任をとるしかないのでしょう。

 

ということで、自己責任で今日は怠けます。 あれ?