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愛猫の誕生日を忘れる飼い主

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飼っている猫の誕生日を祝ったことがありません。
忘れてしまうからです。
なんのひねりもない文章ですね。すいません。

猫の誕生日は便宜上4月1日にしてあります。便宜上というのは、拾われた猫なので、生まれた日がわからないからです。
保護主さんが拾って、連れていった先の獣医さんが「だいたい3カ月?」と尻上がりに年齢の目星をつけてくれたそうで、そこから逆算すると「ま、4月くらい?」ということになり、それじゃあ忘れにくいように4月1日でという経緯で猫の誕生日と決定したというわけなのに、忘れてしまっている有様なのです。

そもそもわたしは、誕生日をはじめとする諸々の「記念日」を覚えられたためしがほぼありません。

昔付き合っていたひとが、なにかにつけて年齢や西暦をきちんと言うひとでした。物覚えがよかったのか、数字が好きだったのかわかりませんが。
「女の子と初めて付き合ったのは、17歳と8カ月のときだった」とか「1997年の1月に初めてスリランカカレーを食べた」などという感じです。感心しきりです。
そんなひとですから、「今日は付き合って1周年だね」などと女っぽいことを言い出します。当然そんなこと覚えていないわたしは、「へ? そうだっけ」などと言ってしまい、露骨に悲しそうな顔をされるので、面倒くさくなって別れました。

 

猫の誕生日を今年も忘れたことに気づいたわたしは、なぜこうにも「記念日化」ができないのだろうと考えてみました。

さすがに自分の誕生日は覚えていますし、家族の誕生日も子どものころからインプットされていますから、忘れようにも忘れられません。脳に染み付いちゃってるんですかね。
それから、わたしが4歳のときに父方の祖父が亡くなったことは覚えています。
おしゃまだった性格がガラリと変わり、内向的になったのは3歳のころ。
お刺身を初めて食べたのも3歳のときでした。
こんなことを覚えているということは、子どもの記憶力というのはすごいものですね。
祖母が、認知症になっても子供時代の思い出を語っていましたが、子どもの強烈な記憶力で植え付けられた記憶は、なかなか消えないようです。


猫の誕生日はいつか、彼氏との交際がいったい何年になるのか、祖母は何年何月何日に亡くなったのか……。

父は7年前に失くなりました。
などとしゃあしゃあと言っておりますが、これもすらすらと「7年前」と言えているわけではないんです。
東日本大震災が起きたのは2011年3月11日で(これはちゃんと覚えている)、「お父さんがあと半年生きたら大地震を経験しちゃったなあ」と思った記憶があるので、その前年の2010年というわけで、リアルに指折り数えた挙句、しゃらっと「7年前」と言っているわけです。
命日はたしか8月10日?

ですから、面接なんかに行っても「このお仕事は何年くらいされたのですか?」とか「〜は何歳のときですか?」などと言われると、頭が真っ白になって、えっとえっと……となり、「こいつ、経歴詐称してんじゃね?」と疑惑の目を向けられるはめになるのです。


おおかたの出来事が自分にとってどうでもイベントだから「記念日化」できないのか、出来事と年月をセットで覚える能力が欠けているのか。
どっちなのか暇なときに考えてみたいと思います。


うちの猫は、今年で8歳になったようです。
これも、病院の診察券を確認して、えっとえっと……と計算しているのです。
ごめんよ。来年こそはお祝いしてあげるね! たぶん。

 

今日のBGM:

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「はしたない人間じゃない」と思いたいわたし

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昼下がりの中央線下り方面の電車に乗り込む。
車内を見渡すと、一番嫌な感じの混み具合である。

乳歯が抜け始めた子どものように、ぽつりぽつりと席があいている。
一番座りにくいパターンだ。
7人がけのシートに、空席が一つとか二つとか三つ。
ぽつりぽつりぽつり。

東京駅を出た頃は、たぶんもっと空いていたんだろう。
これ幸いと1.5人分くらいのスペースを占領して、スマホゲームに夢中のサラリーマンがいる。
自分の横にカバンを置いて、口を開けて熟睡している男子高校生がいる。
そんな奴らがいると、三つの空席が二つとか、一つ半とかになったりする。
べつにそのことに腹を立てているわけではない。
ご自宅のようにくつろいでいただきたいと思う。

そんなことよりも、わたしには、ひとと争わずにすむ座りかたができないことが問題なのだ。
わたしと同時に乗り込んだひとがいなければ、一人分が確保されている空席目指してまっしぐらだけども、同じドア、あるいは隣のドアから乗り込んだひとがいれば、座れる確率は下がる(当たり前だけど)。
そして、静かな戦いをしなければならない。

いや、いいんです。そんなに長い時間乗るわけじゃないから。
立っててもぜんぜんかまわないんです。
どうぞお座りください。

ところが、この中途半端な混み具合だと、立つ位置も重要な問題になる。
ドアの横に立っていてもいいけれど、右のドアが開いたり左のドアが開いたりと駅ごとにころころと変わるから、落ち着かない。

かといって、吊革につかまるのも気の毒だ。
気の毒なのは、目の前の空間をわたしに占拠されたひとだ。
「え。なんでこんなに空いてんのに、よりによってなんで俺の前に立つわけ?」
とか思われそう。
「車窓を楽しんでいたのに遮りやがって」
とか思われそう。

やっぱり座ったほうが気が楽かもしれない。
そうするとやはり他人とその歯抜けの席をめぐって争わなければならない。

「どうぞどうぞ」
「いえいえ、どうぞどうぞ」

なんて言い合えるほど、日本人はお人好しではない。

「レディファースト」「譲り合い」「おもてなし」なんて言葉は、この日本、少なくともここ東京には存在しないかのごとく、我先に座る輩が多い。

ええ、わたしはこのことにもとりたてて腹を立てているわけではない。
人類みな平等。

悩ましいのは、もしわたしが負けた場合、その負けをアピールするところがないということだ。
このやり場のなさをどうすればいいんだという困惑に悶え死にそうになる。

猫はおもちゃを取り損ねるなどの失敗をすると、踊ってごまかすがわたしがそこで踊るわけにはいかない。
証拠↓↓

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小林まこと 『What's Michael? (1) 』 講談社

でも、そんな輩ばかりではない。さりげなく自ら負けてくれるひともいるのだ。
そんなひとがいると、やり場のなさに悶え死ぬことはなくなったが、それはそれでそわそわする。
わたしの頭の中には「レディーファースト」も「譲り合い」も「おもてなし」もないことに気づき、愕然とする。
はしたない人間なのだと自己嫌悪に陥る。
「え、はしたなくないとでも思っていたの?」というだれかの声が聞こえる。

負けてくれたひとを盗み見ると、だらしのないところがなくて、頭良さそうな顔をして、筋が通っていそうで、文庫本なんか読んでいる。
負けてくれたひとたちに、背中を曲げてスマホに夢中なんてひとはいない。

だから、より「負けた感」がつのる。
こんな思いをするなら、最初から「座る」という戦いに参加しなければよかったと思う。
時すでに遅し。
ここでもわたしは負けを認めることになる。

座っても負け。座らなくても負け。
とっぴんぱらりのぷぅ。

 

今日のBGM:

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あえて「あなた自信過剰ね」と言ってみる。

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久しぶりだねぇ、元気?
あれ、ちょっと痩せたんじゃない? ちょっとお疲れ気味かな?
顔色もあんまりよくない感じ。

ええ、実はお医者さんに行ってきたんです。
あ、産婦人科じゃないですよー。
旦那も転職したばっかりだし、まだ子どもは欲しくないんで(笑)
そうじゃなくて、メンタルクリニックって看板を掲げている、まあ、そういうお医者さんに行ってきたんです。

先だって、昔の職場の後輩と会いました。
彼女は職場の人間関係で困っているうちに、軽いうつ状態になってしまったそうです。

「逃げ恥」じゃないですけど、困っているのなら、その場から去ればいいんじゃないかと思うのですが、当事者はなかなかそうはいかないみたいです。
仕事ですし、当たり前ですかね。

でも、上司に相談して異動させてもらうとか、何かよい方法はあるんじゃないかと余計なことを言ってみましたら、彼女は
「与えられた役割があるのに、それをほっぽり出すことに罪悪感を感じていて……。逃げずに今の状況を乗り越えなければいけないと思うんです」
などと言うのです。
聞いていてヒリヒリします。

そんな彼女に「あなた、自信過剰ね」と言ってやりたいです。
もちろん言いません。つーか、傷つかれると困るので言えません。

彼女を普通に見ていれば、決して自信過剰に見えるわけではありません。人間ができているので、むしろ謙虚に見えます。
でも、わたしには自信過剰に見えるのです。

彼女だけではありません。精神のバランスを崩すひとは、総じて自信過剰に見えます。

「逃げない」なんて、自分のことをどんだけ崇高な存在だと思っているのでしょうか。
「よっしゃ、俺がみんなの罪を背負ったるわ。任しとき!」と身を差し出したイエス・キリストじゃあるまいし、自分を犠牲にしてでもやるべき立派なことがあるとでも思っているんでしょうか。

だからといって、自分を卑下しろって言ってるんじゃないんです。
彼女に能力がないって言っているわけでもないんです。
もう少し自分に気配りしてあげればいいのにと思うだけなのです。
周りに気配りするのなら、自分にもできるでしょう?

でも、こういうひとたちは自分のことを過信しているから、わたしは大丈夫♪ などと勘違いして、自分の意志で選んだわけでもない目標に向かって突っ走ってしまいます。

人間っていろいろなことを予測したり、思い込んだりしてしまう生き物なんだと思います。
予測や思い込みと現実が違っていると、そのギャップに苦しむことになるのでしょう。

みんなとうまくやっていることはいいことだ。→なんだか嫌われてるっぽい。やばい! うまくやらねば!

こんなに頑張ったのだから、評価されるはずだ。→あれ? 評価されてない! もっと頑張らなきゃ!

毎日睡眠時間が1時間だけど大丈夫。→もうフラフラで生きる気力がない! でも寝てなんていられない!

あなた、そんなに性能よくないから。
フル回転ばっかりしているとモーター焦げ付くし。
ちゃんと様子見ながら動かさないと壊れるから!

「あなた、自信過剰ね」なんて彼女には言えないけど、せめて自分には言っておくことにいたしましょう。

 

今日のBGM:

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インスタグラムに1カ月間写真を投稿し続けてみた。

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今年の2月にインスタグラムを始めました。

何年か前にも、インスタグラムのアカウントを持っていたことがありました。でも、自分のなかで「片づけの魔法」がブームだったころに、ときめかなかったインスタも捨ててしまいました。

先だって、わたしがバイトしているコミュニティカフェで、写真のワークショップをしてもらえないかと友人にお願いしました。
「インスタ用におしゃれ写真を撮る」みたいなテーマで頼んだのに、企画した自分がインスタをやっていないというのもどうかなと思ったので、深い意味もなく再開することにしたのです。

久しぶりのインスタは、仕様がいろいろと変わっていました。以前よりもフェイスブックと仲良くなっている感じです。
なので、探さなくともお友達が画面に現れます。おかげで何人かの知り合いとフォローし合うこともするようになりました。

まあ、せっかく再開したので、毎日1枚ずつ写真をインスタにアップすることを3月の目標の一つにしました。

週末になると一眼レフを持って写真を撮りに出かけていた時期もあったけれど、ここのところは、とんとご無沙汰だったのですが、写真、やっぱり楽しいです。

写真を撮らなくなってから目を向けることがなかった道端の花々と、久しぶりに再会しました。
そういえば、数年前もここに同じ花が咲いていたなとか、近所のママたちが丹精込めて世話している花壇も相変わらずきれいだなとか。
たとえ花が咲いていなくても、緑の雑草に木漏れ日が差しているのを見て、きれいだなと思えます。
昭和っぽいお宅や団地になぜか心を動かされます。
時間や心に余裕がなければ見すごしてしまうような存在に敏感になります。何でもないものに目を向けること、敏感になることで、特別でないものが特別になります。

毎日1枚だから、非日常を求めていては、イベントの極端に少ないわたしは撮るものがあっという間になくなってしまいます。

かつてインスタのアカウントを持っていたとき、このTED Talkに触発されて、毎日1枚写真をアップするという同じ試みをしたことがありました。

www.ted.com

案の定、続きませんでした。ここで登壇しているMatt Cuttsさんは「まずは30日間やってみよー!」と言っているのに、わたしは期限を設けずにやろうとしたからです。
持続力がないくせに、どうも自分を過信してしまう傾向がわたしにはあるらしく、一気にゴールを目指そうとしてしまうのです。

今回、1カ月という期限を設けたら、あらびっくり、ちゃんとできました。ひとの言うことはちゃんと聞かないといけませんね。
毎日掃除機をかけないと気持ち悪いのと同じように、インスタの1日1枚は習慣化されたので、毎月の目標から外せることになりました。

さて、当時、1日1枚が続かなかったことのもう一つの原因は、アカウントを非公開にして、ひとりでこっそりやっていたことです。
当時のインスタグラムは、今のように「あなたのお友達もインスタやってますよ」と、おせっかいにも次から次へとお友達を表示させることはなかったので、自ら知り合いを探してフォローし合うこともしませんでした。
非公開にして知り合いともつながないということは、わたしの写真はわたししか見られないということです。当たり前ですけど。
外側からの反応が一切ないなかで黙々と何かを続けられるほど、自分は地道な人間じゃないということです。

「べつに人に見せびらかすためにやってるんじゃないし」という心づもりでいました。「見て見て!」と言うことを、はしたないことだと思っていました。それが失敗のもとでした。

このブログとは別の、むかし書いていたブログも同じです。
何かのきっかけで見ず知らずのひとがアクセスすることはあっても、 知っているひとには知らせずに書いていました。
基本的に自分しか読まないブログは、たんなる不満のはけ口にしかなりませんでした。
今自分で読み返したとしたら、言っていることは分からないでもないけど、だから何なの? という印象をもつでしょう。読み手に何も有益なことがない文章です。

もちろん、自分のために、敢えていいもの悪いものひっくるめて吐き出すという文章があってもいいとは思います。
でも、「んで?」というオチのない文章では、自分にとっても有益なことは何もありません。自分に対して得になることが何もないのです。
多少は思っていることの整理にはなっているかもしれませんが、そこには何の変化もなく、まったく前に進んでいない、というオチとも言えないオチがつくだけです。

アウトプットする先には観衆が必要で、その観衆と向き合うことが必要なんだと思います。
アウトプットは、表現とは限りません。仕事だって同じです。
その先の観衆のことを考えていなければ、結果的に独りよがりになってしまいます。

会社のビジョンやら目指す方向やらが仮にあったとして(ほんとうにあったかどうかは怪しいが)、それが通じないという現象はいやというほど見てきました。
日々の些細な業務でさえ、それをやる意味というものがなかなか共有されないことも多くありました。
わたし自身も「もう、なんでわかんないんだよ、このどアホゥ!」とキリキリしたことが何度もあります。
そうして、どうせ通じないと相手に理解力がないということにして、伝えることをあきらめるようになっていきます。
4月の年度始めには威勢のよかった掛け声は、ゴールデンウィークに突入するころには、しおしおしお……としなびていくことが毎年のパターンでした。

理解されないのはつらい。伝わらないのは自分のせいだと思うことも、ちょいとくやしい。
でも、ほんとうに伝えたいことは、「わからない」と言われようが、そっぽを向かれようが、あの手この手で伝え続けなければいけないのでしょう。

舞台の上から客席に目を向けるその瞬間、ドキドキします。
つまらなそうにしているひとがいるかもしれない。うつらうつらと船を漕いでいるひとがいるかもしれない。
でも、客席から目をそらしたままでは、死ぬまで伝わらないのだと思います。

どうすれば面白がってもらえるだろうか、寝ないでいてもらえるだろうか。
何事においても、わたしはそこを考えていませんでした。わたしの言うことには誰も興味がないのだから、伝わらなくていいやと思っていたのです。
どうやったら興味を持ってもらえるだろうかということに、チャレンジしていなかった。だって頑張っても興味持ってもらえなかったらつらいから。

 

ひとが見るということを前提にインスタグラムに写真を投稿し続けると、構図だってそれなりに試行錯誤します。適当に撮ったものではなく、ヘタクソなりにも「今日の一枚」というものを投稿したいと思います。

自分の書いたものを知っているひとたちに公開するのは、写真よりもドキドキします。でも、客席から目をそらし続けていれば、観衆はいつまでも高いびきで寝続けるのでしょう。

「見て見て!」と言う勇気と、観衆に得をして帰ってもらうためのスキルを養うためにも、今月もブログの更新12回目標でいってみよー!

 

今日のBGM:

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昨日より今日のほうが幸せだと思ってます。

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東京は寒いですが、明日から4月です。

去年の3月31日に会社を辞めたので、無職生活一周年を迎えます。
職場の皆さんに銀座ウエストのリーフパイなんぞを配りながら挨拶したのが、はるか昔のように思えるのは、この一年が短かったからなのか、長かったからなのかよくわかりません。

結婚しているわけでもなく、家族と住んでいるわけでもないわたしが、どうやって生活しているのか、興味津々の人は結構いるようです。
大きなお世話と思いつつ、気になる気持ちもよくわかります。
今日も「これからお仕事は、どうされ……?」なんて、語尾をごにょごにょとさせながら言われましたよ。

一応現状報告するならば、週に何回かコミュニティカフェを手伝わせてもらいながら、ぼちぼち生きております。
ここ数年はお金をあまり使わない生活になっているので、今のところなんとかやっていけてますが、そろそろどうにかしないとなあとは思っています。
3月の目標の一つに、「今後のことをちゃんと決める」というのがあったのですが、できてません。来月考えることにします。

なんて、最初からこんなのんきなことを言えるようになったわけではありません。去年の初夏ごろは、ときどき不安な気持ちになることがありました。
仕事なんて真面目に探していないくせに、「このまま仕事が見つからなかったら……」なんて急に焦ることもありました。
かと思えば、道を歩いていて急に幸福感に包まれたりして、あの頃はちょっとイカれてたのかなとも思います。
でも、その幸福感には心当たりがあります。

高校生になった頃から、世の中の普通の一員になりたいと思うようになりました。
わたしの思っていた普通というのは、世間の大多数の人という意味でもあり、大多数の人が歩む道でもあり、誰からも「まっとうじゃない」とは言われないであろう生き方のことです。

高校にあがるまでは、普通がいいなんて思いませんでした。奥手な子どもでしたし、そもそも部活と塾に忙しい「普通」の中学生でもあったからです。
でも、高校生になってからは、何をやってもうまく噛み合わなくなって ―それはわたしのこらえ性のなさが原因だったりするのですが― まあ、そんなこんなでだんだんと「普通」からはズレていきました。

一応言っておきますが、わたしが特別な人間だと言いたいわけではありません。感受性の高い芸術家タイプで、普通の中にはいられないということではありません。
それどころか、ごくごく普通の、「普通」という観念に失礼なくらい、これといったものが何もない人間です。
それでも、世の中の普通の一員でいたかったのです。「普通丸」という名の船の乗組員に、甲板員でいいから乗せてほしかったのです。

多少時間がかかりましたが、わたしはなんとかその「普通丸」の乗組員になることができました。
乗組員になった後は、与えられた仕事を真面目にこなしました。船に乗り続けられるように必死でしたし、台風のときは甲板から振り落とされないようにするのも大変でした。

でも、船にしがみついていながらも、わたしには、目的地がありませんでした。
必死で探したこともありましたが、結局、納得のいく場所は見つけられませんでした。「ここかも」と思ったところもありましたが、よくよく自分を観察していくと、どうやら虚栄とかうわべのかっこよさとかに振り回されているようでした。

一年前に、わたしはものすごく適当なところで下船しました。
地球の歩き方』には、「通関を出て左に両替所がある」とか「ポーターのチップよこせよこせ攻撃に注意!」とか書かれていますが、何も読んできていないので右も左も分かりません。
ホテルは予約していないし、下調べもぜんぜんしていないから、バスや電車の乗り場もわかりません。 
ただ、船から降りた解放感だけが、わたしのなかに充満していました。

この一年なにをしていたのか? と問われたら、「なにもしていません」としか答えられません。
敢えて言うならば、「やりたくないことをしない」ということをやっていたと言えるでしょう。乗組員として認めてもらうためにしていたやりたくないことをしなくなったのです。

こんなことを書きながらも、「所詮、なんとかなると思っているやつはダメだ」とか思われないか気にしています。
無職の独身女が、こんな消極的な態度でいつまでもぶらぶらしていることは、普通に考えたら確かにヘンです。
でも、しがみつくだけの乗組員に戻ろうとは思いません。それどころか、昨日の自分にすら戻りたいとは思いません。

過去を思い出して、よく自分があんな状態で生きていたなと思うことがあります。現実にはそれで大丈夫だったから、今こうして生きているんでしょうが……。
たとえ、昨日はおいしいご馳走をいっぱい食べて、今日はご飯とお新香しかなかったとしても、今日の方が幸せです。
どうしてそう思うのか、よくわかりません。
過去は良くも悪くも劣化していくもので、未来は誰にもわからないものです。
それに対して、今の今は、泣いても笑っても、つらくても楽しくても、元気でもインフルエンザになっても、確かに生きている。そのつらさも楽しさも実感できるから、今が幸福だと思うのでしょうか。
ちょっとうまく説明できません。
過去を振り返ることや、未来を予測することは結構な体力・精神力を使うからということだけかもしれませんし。

ということで、もう一つの3月の目標「ブログを月に12回書く」が達成できませんでしたが、過去を振り返らないわたしは、未来に希望をかけて引き続き来月に頑張ることにします。
ああ、ごほうび(『騎士団長殺し』)が遠のいていく……。

ここで待ってても東京駅には行きません。

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「ちょっと、そこのおねえちゃん。新宿まで行きたいんだけど、どっち行けばいいんかな」
エスカレーターを降りたとき、こんな女性の声が聞こえた。
目の端でとらえた限り、声の主と思われるひとの近くにはほかのひとがいたから、わたしに話しかけられているとは思わなかった。それに、昭和生まれのわたしは、とうの昔に「おねえちゃん」ではなくなっている。
「わたしに話しかけられているのではない」と確信したわたしは、すたすたと目指す方向に歩き始めた。ところが、「おねえちゃん、おねえちゃん、ちょっとちょっと」と声が追いかけてくる。
もしかして、わたしに話しかけてます? 面倒くさいという黒い気持ちが胸いっぱいに広がりつつ、キッと振り返った。
そこには、やや個性的なファッションだけど、顔を見る限りは至極まっとうそうな50〜60代と思われる女性がいた。

新宿って言われても、ここは六本木ヒルズだ。まさか新宿まで歩いて行くわけじゃなかろう。「新宿に行くには、どの駅から電車に乗ればいいか教えてくれ」が正しい質問のしかたなんじゃないの? と思った。
なんで近くにいたひとじゃなくてわたしに訊くのかという疑問や、このフランクすぎる口のききかたや、あまりにも手抜きな質問におののきながらも、わたしは 「とりあえず六本木の駅に行きたいということでいいですか?」 と返した。すると彼女は 「うーん、たぶんそう、……かな」 と歯切れが悪い。
来るときはどこから来たんだよ。駅っつったって、六本木以外にもいっぱいあるんだよ、とイラッとしながらも、
「ここをまっすぐ行けば、地下鉄の駅に降りる階段がありますよ」
とわざと無表情で教えた。
「ありがと、ありがと」と言いながらせっかちに去っていく彼女の後ろ姿を見ながら、ほんとうは、新宿までの行き方がわかるかどうかを訊いてあげるべきだっただろうなと思った。
でも、その話をするとややこしくなりそうで、訊かれたことだけ答えるにとどめてしまった。ごめんね、おばさん。

 

「ここで待ってれば東京駅に行ける?」
「◯◯町5丁目21はこのあたりかしら?」
「スミーマセン、ワタシワァ、イケブクロゥニィ、イキターイデス」
「いま、何時ですか?」

ここのところ、毎日のように赤の他人にいろいろな質問をされる。いつも仏頂面しているわたしに、親切にさせようとする理由がよくわからない。
若い頃からなぜか外国人に道を訊かれることは多かったが、最近は外国人1割、日本人9割と日本人率が高まっている。外国人に優しい観光立国ニッポンになったから外国人に話しかけられることが減ったのか、日本の高齢化が進んで迷える高齢者に話しかけられることが多くなったのかはよくわからない。

サービス精神のほとんどないわたしに道やら電車やら時刻やらを訊いて、後悔するひとは多いだろう。 わたしの虫の居所次第で、彼らの行く末は決まる。そして、残念ながら、虫の居所は悪いときのほうが圧倒的に多い。
訊かれたことにしか答えないし、クローズド・クエスチョン(YesかNoで答えられる質問)に対しては、YesかNoかでしか答えない。知らないことは知らないとしか答えず、一緒になって調べてあげることもほぼしない。おまけはいっさい無し。駅員さんとかおまわりさんとか、駅探とかグーグルマップ様に訊けよ的な雰囲気まで匂わせてしまう。

丸ノ内線新宿三丁目駅で「この電車は池袋まで行きますか」と問われて、「行きますよ」と答える。嘘じゃない。本当に行く。でも、違うルートのほうがはるかに早い。
新宿三丁目から池袋に行くには、副都心線を使えば10分もかからないが、丸ノ内線に乗って行くと40分近くかかる。近いはずの池袋にはなかなか着かない。
いつかこんな意地悪をしてみたい。

こんな不親切で性格の悪いわたしだけど、虫の居所に関係なく、自らひとに親切にしようとすることがある。
それは2つの場合に決まっていて、誰かが持ち物を落とすのを目撃したときと、重い荷物を持って駅の階段を上がろう(または降りよう)としているひとがいたときだ。
落とした物を拾ってそのひとのところに持っていくとか、「荷物をお持ちしましょうか」と申し出ることを、考えるより先にやっている。 
なぜこの2つなのかは、たぶんそのひとが困っていることが明らかだからだと思う。
この親切は単なる気まぐれなので、お礼を言われまいが、申し出を断られようが、一向にかまわない。寅さんのようにかっこよく立ち去るのだ。

正しいことかどうかはわからないけれど、親切って気まぐれでもいいんじゃないかと思う。気まぐれには下心がないから。
義務感からの親切心では、その行動を認めてほしいという期待を持ってしまいそうだ。
お礼を言われなかったりすると、「なによ、せっかくやってあげたのに!」と相手を悪く思ってしまうかもしれない。「ありがとう」という言葉を強要することになる。これでは他人にも自分にもいいことはない。

いつもいつも親切なひとでいようとすることは、少なくともわたしには無理だ。
親切であろうとすることを自分に課してしまうと、それができない自分をダメな人間だと思い、そこに無駄なエネルギーを使ってしまいそうだ。

だから、下り方面のホームで「東京駅に行きますか」というクローズド・クエスチョンはしないでください。仏頂面の「行きませんけど」という答えが返ってくるだけだから。

でも、みんながこのブログに「いいね!」してくれたら、気を利かして上りホームまでご案内しますけど!

ちゃんと見(観)よう。

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なぜ、あることをやるためには何かを犠牲にしなければならないと、人は思うのでしょう。

仕事をとるか、家庭をとるか。
言いたいことを言わないでいい人でいようとするか、言いたいことを言う代わりに嫌われるか。
我慢して就職するか、好きなことのためにフリーターになるか。
トレードオフっていうんでしょうか、こういうの。 なぜ、どちらも可能だと思えないのでしょうか。
実際に行動に起こす前から、こっちを選んだらこうなる! と決めつけて、人はうだうだと悩んでしまいます。もちろんそうじゃない人もたくさんいるとは思いますが。

かつての職場に、「有休をとりたいけど、なかなか休めない」といつも言っている人がいました。べつに休めばいいんじゃないかと思うんですが、「休んだら迷惑がかかる。だから休めません!」となかなかに頑固でした。
迷惑がかかるかどうか、そんな未来のことなんてタイムマシーンに乗らない限り、わたしたちにはわかりません。
もし迷惑がかかると思っているのなら、迷惑がかからないように段取りしとけばいいじゃないかと、無責任なわたしはそう言ったのです。そうしたら、「この仕事はわたしにしかわからないから無理!」と言われました。もう知らん、と思いましたわ。
迷惑をかけない、かつ段取りもしないで休める隙きをねらっていたら、死ぬまで休めません。彼女は、休む=迷惑がかかる、自分の仕事=自分だけでやるべき、という図式に取りつかれていたのかもしれません。

自分の夢を実現させる=恋愛はあきらめなければならないという図式も、古典的ながら根強いような気がします。ものすごく古いですけど、「木綿のハンカチーフ」的な?
でも、このような展開の物語に感情移入する人が多いのは、皆さんやはり似たような経験をしたことがあるからでしょうか。
残念ながら、わたしはこの手のお話には心が動かされません。夢も恋愛もゲットしたスーパーウーマンだからです。

 

というのはもちろん嘘で、わたしが感動できないのは、ものごとの選択にそこまで葛藤したことがないからです。
べつに決断力があるというわけではありません。夢を本気で追いかけたこともなければ、この人と絶対に離れないわ! と思うほどの情熱的な恋愛もしたことがないだけです。せいぜい、モンブランとアップルパイのどちらにするか、情熱的に迷うくらいです。

少し前までのわたしは、葛藤なんかせずに、一つ一つ潔く選択・決断してきた人間だと思っていました。でも、どうやらそうじゃなかったようなのです。

人生経験というものは、どれだけ感情が動かされたかということに尽きるのかもしれない、と最近思います。
他人からはどんなに波乱万丈な人生に見えても、本人がその波乱万丈な何かをただの経験として経験しているのであれば(ちょっとややこしいですが)、その何かはその人の中をただ通過しただけなんじゃないかと思うのです。右から左に。

特別に劇的な経験がなくても、自分の中に湧き上がった感情を無視しないで生きてきた人は、なにか違うんです。
とくに子供の頃からきちんと自分の感情と向き合ってきた人には、「まいりました」と思います。抱いた感情を表に出す、出さないには関係なく、自分のなかで温めてきただけであってもです。
「違う」とか「まいりました」なんていい加減な言葉ですませないで、もうちょっとちゃんとした言葉で表現できればいいのですが、こういうことが、感情に向き合ってこなかった人の成れの果てなのです。

ちょっとうろ覚えですが、インドでは、恐れに形を与えるということをしてきたらしいのです。だから、神様がたくさんいるというのです。
それに対して、わたしは恐れを形にするどころか、見ないようにしたり、なかったことにしたりしてきたわけです。
その結果、感情というものが退化していきました。使わない筋肉は衰えるように、感情も使わなければ衰えるようです。そこになんらかの心の揺れがあることに気づかなくなり、心が揺れることそのものがなくなっていくのです。
そうして、感動する力も共感する力も失っていったのです。
だから、本を読んでも映画を観ても絵画を眺めても、何もキャッチできない。せいぜい落語で笑うくらいです。

 

これを観て、「号泣した」という声をけっこう聞きました。
わたしはもちろん、ひとつぶの涙も出ませんでした。それどころか、観ている間、どうでもいいことばかり考えていました。
この人はアメリカ人なのに、なんでお腹が出ていないんだろうとか、フリーターなのになんでプリウスに乗ってるんだろうとか、そもそもこれは真面目に作られたものなのかそれともギャグなのかとか、寝不足だから眠いなあとか。

あ、一つだけありました。
彼らが「消費者」ではなく「提供者」であろうとしたことは、どうかどうかそのまま頑張って続けてください、と思いました。
「提供者」とは、人によっては「リーダー」とか「クリエーター」という言葉で表せるかもしれません。常に受け手でいるのではなく、自分で選んで、動いて、出していくという人だとわたしはとらえています。
そうあろうとした彼らに、ちょぴっとだけ共感したのです。でも、彼らがセンチメンタルになっちゃうところには、ちょぴっとイラッとしましたが。

 

ということで、もう観た方も多いと思いますが、「ラ・ラ・ランド」。
自分の感情をちゃんと見てきた人は、この映画をどう観たのでしょうか。

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